すべて受け止め、愛し、許す心 | Petit Petit Happy Search(ぷちプチしあわせさがし)

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たけにむが求めていくぷちプチしあわせさがしの旅。ぷちプチしあわせも積もれば山となる。

礼拝讃美に向かっていくための直前の練習、普段よりもはるかにまとまりがなかった(ように感じた)。
同じミッションの下に集っているはずなのに、見つめている方向がそれぞれバラバラなような気がして、練習を始めていくタイミングが分からなかった。
中心不在?いつもよりメンバーが少ない?そんなことが問題ではない。

誰が?どこが悪い?…誰もどこも悪くない。考えても疲れるだけ。
ただ、自分が悪いということを礼拝のみ言を聞いている中で気づいた。

“侍る生活”とは、いかに父母を迎えるかということ。
父母とは、神様と真のご父母様のこと。
“父母”を迎えるということは、私たちのすべてを愛し、許して下さる神様と真のご父母様の心情を相続することだろうかと自分の中で結論付けた。

朝、私はその心情を相続することができていたか、私を取り囲む環境や人、すべてを受け止め、許し、愛することができていただろうか。
結論、神様と真のご父母様を中心とする場において、そこから最も外れた場にいたのは私。
きょうのみ言は、「一人で考えるのではなく、神様と共に考え相談する立場が絶対に必要です。」
自分の思いのみで行動していたと気づいたのはだいぶ後だった。

第1部の礼拝が終わった後、あるご婦人から「今日もよかった。」と言われたけど、正直気持ちは複雑で、ただただ「申し訳ない」という思いが言葉にならずに宙に漂い続けた。

第2部で宙に漂い続けている何ともいえない思いをかき消して修正できたかというと、当然(自信を持って言うものどうかと思うが)できるはずがなく、頭の中に充満した思いが悔し涙に変わった。

許しの言葉を述べたルーシェルに対し、神様は、「お前を1度も憎んだことはない。だから、許しと言う言葉すら必要ない。」と言われたそうだ。
さらに、神様はルーシェルのために創った庭などをそのままにしておいたらしい。
再び戻ってきた日のために…

昨日(18日)、ある方から「気心の優しい…」と言われた。けど、それは特定の条件下のみだ。しかし、それが神様の願いであるはずがない。
神様はどのような環境でも“ために生きる”ことを願われている。
「環境によって変わる者となってはいけない。」というみ言がそれを物語っている。

神様の許しは偉大だ。いかにそれを相続していくかが課題。