第12回「思春期ポストモダン 成熟はいかにして可能か」斎藤環 著 | 建築家の視点

第12回「思春期ポストモダン 成熟はいかにして可能か」斎藤環 著

いきなりですが質問です。皆さんは若者のことをどう思われているでしょうか?



生意気

すぐキレる

話が通じない



また



オタク

ひきこもり

不登校



こんなネガティブな印象をもっているのではないでしょうか?



今一つでも当てはまってるなと感じた方はゼロベースで本書に向かってみてはいかがでしょうか。



本書は、このように若者というものをあらためて考える必要があるのではないかという懸念から出発し、本書のサブタイトルでもある、いかにして成熟は可能かという疑問をひもといて、精神分析の視点から結論立てていく内容になっています。










では内容に入りましょう。



まずタイトルですが、「思春期ポストモダン 成熟はいかにして可能か」

というタイトルですがピンとこないですよね。



このタイトルに関して著者はこのように語ってます。



「精神科医としてポストモダンという言葉を使う場合は、ほぼ主体概念が無効になった時代。つまり、病んでいる主体(人や家族または社会)を問題にするだけでは治療が難しくなった時代。」

ということだ。



そしてこう続ける、



「かといって、主体をとりまく環境要因にのみスポットをあてるという方法にも限界がある。」



最後に、



「やはり、(主体ー環境)をはじめとする、無数の関係性のネットワーク、こちらのほうに注目する必要であるのではないか。」





言い換えれば、主体ではダメ。環境もダメ。その主体と環境の間(関係性のネットワーク)に注目する必要があると言ってます。



これを著者は「病因論的ドライブ」と仮設し、ひきこもりや家庭内暴力を病因論的ドライブの作用例として、具体的に語ってます。



ここでいう「病因論的ドライブ」とは

病気と健康の間(関係性のネットワーク)であり、先程の主体と環境の間と同意語です。



そして最後に、



「ポストモダンとは、成熟という概念の価値が徹底して失われる時代でもあるからだ」と語り、成熟に変わって重視され始めたのは「適応」であろう。と語られています。

つまり、サブタイトルの「成熟はいかにして可能か」とは一種の反語である。と続いています。



つまりまとめると、



ポストモダン以前は病気は本人に問題があるという概念があったが、ポストモダンに入り、病気は本人と環境との間に問題があるという考えにかわり、その間を、無数の関係性のネットワークが存在しているとしている。

そして、その無数の関係性のネットワークには適応しなくてはならないといけない時代であると。

このようにまとめることができるのではないでしょうか。



本書はポストモダンの基礎になる話であり、以前紹介した、動物化するポストモダンと基本的な事柄は同じです。



違うといえば、例える内容が違うと言えるのではないでしょうか。



精神科医からみた若者のポストモダン。できれば最初は、「動物化するポストモダン」を先に読んでほしい。

何故なら、新しい言葉を使ってなく分かりやすいからです。



では第12回の書評を終わりにしたいとおもいます。



ではまた。