「除染を行えば大丈夫」という論理に潜む原発容認 | 脱原発の日のブログ

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12月8日は1995年、もんじゅが事故を起こして止まった日。この時、核燃料サイクルと全ての原発を白紙から見直すべきだった。そんな想いでつながる市民の情報共有ブログです。内部被ばくを最低限に抑え原発のない未来をつくろう。(脱原発の日実行委員会 Since 2010年10月)

除染を行えば大丈夫」という論理は「原発事故は除染で解決できる」という容易に原発容認に転化しうる論理にほかならない

放射性セシウムなど放射能汚染物質や汚染水の「除染」「除去」について、「土壌からほぼ全量回収可能
・・・新技術を開発」(毎日新聞、2011年8月31日)、「効率よく吸着できる新材料 研究機関が開発」(同紙、
2011年7月27日)などの「朗報」をこのところ目にし、耳にすることが多くなってきました。

■放射性セシウム:土壌からほぼ全量回収可能…新技術を開発(毎日新聞 2011年8月31日)
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20110901k0000m040119000c.html
■放射性物質:効率よく吸着できる新材料 研究機関が開発(同上 2011年7月27日)
http://akb.cx/H4Q

こうした「朗報」そのものは歓迎すべきことです。なによりもフクシマ第1原発事故を一日でも早く収束させ
たいという国民の強い意志の表れがそのような形、結果となって出てきているのでしょうし、政府が先月
の26日に被ばく線量が年間20ミリシーベルトを超える警戒区域や計画的避難区域では「国が主体的に
除染を実施」するという意志(「国が主体的に除染」する区域を警戒区域や計画的避難区域に限っている
ことなどきわめて不十分な国家意志の表明といわなければなりませんが)を示した「除染に関する緊急実
施基本方針」を決定したことなども「除染」「除去」に関する研究機関の機敏かつ旺盛な開発促進を促して
いる大きな要素のひとつにもなっているのだと思います。

しかし、そうした汚染物質や汚染水の「除染」「除去」によってフクシマをはじめとした汚染地域が完全に蘇
るかのような幻想を抱かせたり(多くは政府とメディアの責任ですが)、私たちとして幻想を抱くのは禁物と
いわなければならないでしょう。下記で専門家の見解を紹介して指摘していることですが、「現地は農地と
森林が一体となった環境で」あり、「除染は農地と森林をセットで行わなければ意味が」なく、「確実に除染
するには樹木を皆伐」する以外方法はない(小澤祥司日大生物資源科学部講師)。そして、樹木を皆伐す
れば山はハゲ山となり、農地の水がめ装置としての山の役割は消失してしまい、農業は当然成り立たなく
なるからです。農業ができない土地での農業生産地の〈復興〉などありえない話です。

この点において下記の弊ブログでも紹介している児玉龍彦氏(東大先端科学技術研究センター教授、同
アイソトープ総合センター長)の認識は私には疑問です。先般の国会陳述では国民を瞠目させる正気果
敢な発言をした児玉氏ですが、除染については「0.5μシーベルト以下にするのは非常に難しい」としな
がらも「除染はできる。いや、しなければならない」というお立場のようです(衆院厚労委員会での意見陳
述 2011年7月27日)。しかし、児玉氏の認識には、上記の小澤氏、あるいは小出裕章氏(京大原子炉実
験所助教などが指摘する「農地と森林の一体性」、あるいは「樹木の皆伐」という認識は含まれておらず、
その上での「除染はできる」というお立場であるかのように見えるからです。

この点についての専門家の意見を下記にまとめています。ご参考にしていただければ幸いです。

■ 「除染を行えば大丈夫」という論理は「原発事故は除染で解決できる」という容易に原発容認に転化し
うる論理にほかならない、ということ(弊ブログ 2011年9月2日付)
http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-334.html