税金とお布施の共通点
終活カウンセラー協会http://www.shukatsu-csl.jp/ の活動をいよいよ10月23日からスタートさせます。
その活動を通じて、弁護士さんや税理士さんとお話をさせていただく機会が増えました。
話をさせていただく中で、ふと、税金とお布施は、ある意味似ているなぁと思うようになりました。
日本人の多くは、喜んで税金を払う人は少ないと思います。
「取られた」とさえ思う方が大半でしょう。それは、国や政治家に対して信頼感がないから。
社会保障などの福祉が充実している北欧では、日本では比較にならないほど、税金でがっぽりと持っていかれてしまうことは、皆さんご存じだと思います。
しかし、それで不平不満を言う方は少ないと聞きます。それは、国や社会に対して信頼関係が出来ているからではないでしょうか?
年齢を重ねて介護が必要になった時、失業して仕事を失ってしまった時、誰かの助けが必要な時、それらのサービスを税金で補ってくれるという安心感が、高額の納税に対しても「当然のこと」という意識にさせてくれるのでしょう。
しかし、日本ではそれらの社会的サービスが、北欧に比べて圧倒的に不足しています。
国や行政が、私たち国民を助けてくれるという意識を持っている人は、どれくらいいるのでしょうか?
「自己責任」という名のもとに、切り捨てられてしまうことさえあります。
従って、頼れるのは自分だけという意識が強くなり、誰もが他者に対して不寛容になりがちです。
税金は社会貢献の一環として納めるものという意識よりも、「取られる」ものとして、多くの方は認識されているのではないのでしょうか?
これは、僧侶への「お布施」も全く同じです。
僧侶へお布施を喜んで「お包みする」「させていただく」と考える方は、どのくらいいらっしゃるのでしょうか?
税金と同じく、お布施は仕方なく「払うもの」。お寺に「取られた」とさえ、多くの方は思っていると思います。
私は今まで一般の方から数千件の「お布施」の相談を受けてきたから、良く分かります。
税金に関しては、その使い道をはっきりと明示して、無駄使いをなくし、国民に還元できるような仕組み作りが求められています。
しかし、公務員改革や行政改革などという言葉はよく聞かれますが、それがほぼ完璧に実現したことは、未だかつてありません。
なぜなら、利権構造が既に出来上がっていて、人間は一度手に入れた甘い蜜を好き好んで手放そうとはしないからです。
それは霞が関や永田町を見れば明らかです。某電力会社の隠ぺい体質や今回の原発事故も、それと無関係ではないはずです。
そして、仏教界もそれと同じことが起こっています。
僧侶として本当に「発心」をおこし、仏の弟子として仏道に生きる覚悟を持った者が、お寺の住職になるのではなく、家業として「世襲制」を維持するためだけにお寺を継いでいるという現実があります。
もちろん、志の高い僧侶も存在しますが、圧倒的に少ないと思って間違いありません。
だから、お布施を「お包みした」「さしあげた」とはなりません。「取られた」となります。これは、お布施を頂く側も包む側も、双方にとって悲劇です。
そして、俯瞰的にみると、この構図は僧侶の世界だけではなく、医療や司法の世界、一般企業に至るまで、似たような問題はたくさんあり、根っこはすべて共通していることだと私は考えています。
美味しい料理を素敵なレストランで心地よく、大切な人と共にいただけば、喜んで「ありがとう」という感謝の気持ちを持ってお金をお支払いすることができます。
素晴らしい映画や本と出会えれば、その値段は安いとさえ感じることがあります。しかしい、つまらない映画や本だった場合、お金を返してほしいという気分になることがあります。
つまり、その費用に相当する「価値」があるかどうか?が、今問われているのだと思います。
しかしながら、一方で、納税は無意味だからといって脱税をしたりするのは大問題です。
僧侶へのお布施でいえば、中下は生活困窮者の葬儀を無料でやってくれる、テレビでもそう言っていたということで、高級外車に乗っているような人が、お金があるにもかかわらず、「アイツはタダでいい」と、一円も払わないという人もいます。
繰り返しますが、「税金」や「お布施」を「取られた」と考える人は多いのは事実です。それは「頂く」側が謙虚に受け止め、改善していかなければいけません。
しかし、払う側も、税金を払うことによって、社会に貢献できる、人の役に立てると考えてみる必要があるのではないでしょうか?
中下大樹がよいお坊さんとは言いませんが、仏道を誠実に歩んでおられる宗教者を私はたくさん知っています。
日本ではあまりなじみがありませんが、「喜捨(きしゃ」)という言葉があります。東南アジアの仏教国では、ごく普通に見られる光景です。
今回の大震災の義援金でも同じことですが、私たちは自分自身の執着心を見つめなおしてみることも大切なような気がしています。