ドイツ緑の党国会議員で原子力政策のスポークス・パーソンのジルビアさんから日本語での報告書を頂きました。驚きです。感謝!

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

日本訪問記 2011年5月14日— 21日
日本の「みどりの未来(Greens Japan)」の招きを受けて、私は 5月15日から20日まで福島県各地ならびに30km圏内、危険に晒されている浜岡原発のある静岡県、東京、大阪、京都の各都市を訪問した。想定可能な原発事故の中で最も重大な事故となった福島第一原発事故から2ヶ月後に、こうして私は原発事故の経験が日本社会に変化をもたらしたかどうか、もたらしたとしたら、どのような変化であったか、現地において自分の目で確かめる機会を得たのだった。
今回の視察旅行での私の使命は、どうすれば脱原発とエネルギー政策転換が可能かを提示することであり、またその際、ドイツにおける市民運動ならびに緑の党の役割について説明し、日本国内での市民運動や環境政党結成への動きを応援することであった。
6日間にわたる日程は極めて密度の濃いもので、各地で開催されたシンポジウムでの講演、各地の市民運動やみどりの未来のメンバーとのミーティング、被災者、ボランティア、行政担当者との意見交換、諸施設の見学、放射線量測定、インタビューなどを行なった。
日本にはこれまでデモをするという文化がなかった。自分たちの関心事のために通りに出て、要求を声に出し、政府を批判するということは、日本人のメンタリティーには馴染まないことなのだ。だから福島原発事故の後に1万 5000人が参加してデモが行なわれたことは、この国にとって小さな革命だった。市民運動の最初の兆しが現れたのだ。原発事故の経験と、政府による虚偽の情報が人々を政治行動に向かわせたのである。こうした動きはこれまでのところ全国的とは言い難い規模ではあるものの、日本社会の中で何かが動き出している。人々にとって、それまで盲目的に信頼し、それなくしては生きていけないと思い込んでいた高度技術への信頼が突然失われたことも大きな衝撃だった。
日本は従来、その(膨大な)電力需要の26%を原発によってまかなって来た。 25%は石炭、28%はガス、11%弱が石油、そして 7.8%が水力による発電である。その他の再生可能エネルギーはこれまでのところほとんど利用されてい
ない。電力需要は数十年来継続的に拡大してきている。日本には地震の危険のない場所はないので、 54基の原子炉は全て多かれ少なかれ強い地震の危険のある場所に建っている。最大級原発事故を受けて、地殻変動によって特に大きな危険に晒されている浜岡原子力発電所では以前から稼働停止中の原子炉を含む5基の原子炉の稼働が停止された。これによって供給されなくなった原発の電力は、石油火力発電所を復旧させることで代替供給されている。エネルギーの効率的利用はこれまで日本では話題にされてこなかった。節減の潜在的可能性は一見しただけでも目につく。太陽、風力、水力、開拓可能な地熱、今後開発すべき波浪エネルギー技術の利用のための海岸など、日本はエネルギー政策転換のためのあらゆる可能性を自然から恵まれている。その上、ハイテクならびに研究拠点として全ての技術上・学術研究上の前提条件を備えている。日本は浜岡を出発点に脱原発に着手すべきではないだろうか。
「みどりの未来」が今回の視察旅行を企画したのは、脱原発およびエネルギー政策転換、市民運動の結成と緑の党設立への支持を呼びかけるためだった。この目的は滞在中の一週間でかなり成功したが、ドイツ緑の党によるコンタクトと支援は引き続き継続し、拡大してゆかなければならない。
福島の最大級原発事故から、私はドイツにとっての教訓を二つ導き出した。一つは、日本のようなハイテクの国が自然災害の力から自国の原子力発電所を守ることができないのなら、どの国も自国の原発のリスクを深刻に受け止めなければならないということである。二つ目の教訓は、日本の政治責任者との対話を通じて、また市民が情報の不足を盛んに訴えるのを聞いて私も初めて気づいたことだが、重大な原発事故の影響に対してどんな政府であっても十分に対応しきれないだろうということだ。日本の偽情報政策は、日本特有の問題ではなく原発の問題なのである。
シルヴィア・コッティング=ウール
2011年5月

視察旅行記
5月14日土曜日ベルリン出発、ヘルシンキ経由で東京に到着第1日目—東京
午前、東京成田空港に到着。「みどりの未来」会員の「リッキー」さんが迎えに来る。彼は視察旅行の企画者で、ドイツ公共放送の番組「モルゲンマガツィーン」の取材が急に入った時も、前後のインタビューのアポ変更をするなど日程が滞りなく行なわれるよう気を配ってくれた。空港には田口信子さんも一緒に来ていた。田口さんは上品な年配女性で、大学教授のご主人に伴って一時フライブルクで暮らしたことがあるという。田口さんは私にチェルノブイリ後のドイツ女性たちを思い起こさせた。福島に衝撃を受けて、田口さんは活動し始め、「みどりの未来」の会員になった。この両氏が、視察旅行の間ずっと私に同伴してくれた。
午後、ヘルムート・コール元首相にも同行したことがあるという職業通訳者の高田知行さんがわれわれ一行に合流した。高田さんは京都出身で、ドイツ人の夫人とノルトライン=ヴェストファーレン州に住んでおり、田口さんからの仕事の依頼を即座に引き受けて下さった。彼の様子からは、すでに長年ドイツに暮らしていることが伺えた。一般の日本人以上に歯に衣を着せぬ批判を辞さず、原発事故後に自国で起こったこと(あるいは起こらなかったこと)について強く憤慨していた。
18時30分から、350人が参加する最初の大きな会議が国立オリンピック青少年センターで行なわれた。私の他に、NPO法人環境エネルギー政策研究所の飯田哲也さんと和光大学教授の竹信三恵子さんが報告を行なった。竹信さんは、原発事故の社会的影響について発表した。その中心的なメッセージは、とりわけ大きな影響を受けているのは女性だということだった。農業中心の福島県では伝統的な男女の役割分担意識がなお根強く、女性は遠慮して自分たちに必要なものを要求しない、避難所にいてもそうだという。こうした女性たちは主に農業活動に従事してきた人々だ。将来のことを思うと気持ちが塞ぐと話している。このことは男性も同じである。避難所にはプライバシーはなく、それが一層のストレスを誘発する。竹信さんは、立ち入り禁止区域から避難して来た人々に対する差別についても懸念しており、将来、避難民同士でしか結婚できないのではないかと心配する人も少なくないと報告している。その上で、避難民に対する支援が物質的なレベルにとどまっており、例えば心理的な相談の窓口が開設されていないと訴えた。飯田さんは再生エネルギーの日本におけるパイオニアで、日本のエネルギー政策の転換を呼びかけた。ディスカッションタイムでは、聴衆の間から私にドイツの緑の党はいかにして脱原発を達成したのか、原発電力を代替する方法は何か、ドイツの市民運動はどのように成立したのか、チェルノブイリに対するドイツでの反応はどうだったか、ドイツ人にとって福島は何を意味しているのかといった、より掘り下げた情報を求める多数の質問が出された。こうした質問は6日間の滞在中を通じて何度も繰り返し出された。

第2日目—福島県
早朝に出発。福島まで新幹線に乗り、そこから車でさらに移動した。私たち一行は比較的大人数のグループで、測定器や防護服も携えていた。福島第一から80km離れた福島市から私たちは南西方向に走った。市内では放射線量は低く1 μSv未満で、格子状の下水溝の蓋のすぐ上で図ったところでも 3 μSvだった。事故を起こした原子炉から50kmの地点では、自動車内でほぼ3 μSvの一定の値を観測した。干上がった田んぼを目にすることが次第に多くなって来た。収穫しても売ることができないため、作付けがストップされているのだ。私たちは30km圏に入り、海岸近くで北に向かって方向を変えた。 30km圏の境界には、立ち入り禁止区域に入ったことを示す標識あるいは警告はなかった。町はがらんとしていたが無傷で実に妙な感じだ。海岸の町、新地町の手前で私たちは初めて津波の残した爪痕を目の当たりにした。かつて多くの家庭の暮らしを形作っていた家財道具がゴミの山となってうず高く積み上げられている。海に近づくにつれて、風景はより荒れ果たものに変わっていった。やがて着いたのは、破壊し尽くされた相馬港だった。打ち砕かれた巨大な港湾の建物、残った屋根やベランダの上に船が乗り上げている。ここでもかなり後片付けが行なわれたというのだが、その印象たるや「この世の終わり」というに相応しいものだった。私たちは、ボランティアのヘルパーさんと会うことになっていた。彼女は普段、劣化ウラン弾の被害を受けたイラクの子どもたちのための仕事をしているが、今はある農家の女性の支援をしている。この農家はやや高台にあったため、津波の被害は比較的が少なかったが、自家消費用に栽培している家庭菜園の野菜のことを心配していた。私たちは測定してみた。 0,5 μSv—高すぎる値だ。農家の女性はそれでも野菜を食べる、他にどうしようもないから、と言う。私たちは南に進路を変えて海岸沿いを走った。風景は異様なものに変わった。野原に何隻もの船が艦隊のように並んで横たわっている。あの船を海に浮かべることは二度とできないのだ。私たちはまたしばらく 30 km圏の中を走り、それから東に曲がった。30 km圏から少し外に出たところで放射線量は突然高くなった。車中での値はずっと 5μSv だった。長泥地区に近づいた。ガイガーカウンターがアラームを発した。車を降りて測定すると 11 μSvあった。排水管の真下での値は500 μSvだった。この排水管の側には誰も長い間はとどまらなかった。この地区が高度に汚染されていることは知られている。住民は既に避難したとされているが、およそ 1割の人々はまだここに残っている。彼らは3ヶ月以内に、原発作業員の被曝限度量を越える放射線に晒されることになる。ここにとどまり続けるなら、おそらく健康を害するだろう。
私たちはさらに飯館に向けて車を走らせた。事故を起こした原子力発電所から約45km離れた同地区の汚染も知られている。飯館では現在、住民の避難が行なわれている。福島第一から北西の方向に向かって、少なくとも 50kmにわたって伸びる高度に汚染された地帯が存在する。それなのにあまりにも情報が少なすぎる、これは隠れもない事実だ。まんべんなく測定が行なわれていないことも一因かもしれない。飯館で私たちは村長に面会した。村長は避難のストレスにもかかわらず、時間を裂いて下さった。私の質問に対して村長は「東電からは何も期待できません」と答えた。自分の村が消えてゆくのを、彼はなす術もなく見ているしかないのだ。いつの日か村民は全員帰ってくる、村長はそう話した。飯館周辺では有機農業が推進されてきただけに、土壌汚染は人々にとってなおさらのこと痛恨の極みである。
私たちはその晩、環境保護政党ネットワーク横浜の社会福祉事業の一環である米沢のグループホーム結いのきに泊まった。「グループホーム」というのは一種の老人ホームだが、高齢者以外も食事にやってくる施設で、日本元来の和食が出され、寝る時には床の上にマットを敷いた。ここでは互いの連帯があたりまえという雰囲気が支配している。

3日目—米沢
米沢では避難者と面会した。南相馬市から来たイトウさんは、放射線について正確な情報を得られない中で、 4歳の娘を心配して夫とともに自分たちの判断で故郷を離れた時の様子を話してくれた。海岸近くではガソリンはどこにもなく、イトウさんたちはガソリンが続く限り北西に向かって走ったという。米沢に着いたのは偶然の幸運だった。地元住民は連帯の印として節電をしている。イトウさんたちがある店で台所用品を買おうとしたら、ただでくれた。現在、米沢には1000人の避難者がいる。イトウさんは、避難者に対する態度はどこでもこうだというわけではないようですね、と言う。日本は三つの避難者の波に対処しなければならない。最初の波は津波の被災者、次に放射線が理由で自発的に逃げてきた人々、そして 3番目には放射線が理由で政府から避難命令を受けて避難してきた人々の流れだ。別のご夫婦は、家にとどまりたかったが、自分たちの住む地域への道路が封鎖され、出ることはできるが入ることはできなくなっていると友人から電話で聞いて不安になり避難してきたと話してくれた。この若い夫婦は子どものためにその場で逃げることを決めたという。避難者は全てを失ってしまう。住み慣れた家、生計を立てるための仕事、社会的ネットワーク。彼らはできるだけ早く帰宅したいという希望を口にするが、それが実現しないだろうことを薄々感じている。避難者の 1人は、住めなくなった土地を太陽光発電所や風力発電所で覆うという先見的なアイディアを話してくれたが、自分の将来については「どこに住んだらいいのか」と不安を隠せない様子だった。私たちが話をした避難者の人々にとって、原発はかつては話題にされることもないことだった。今や彼らも廃棄物についても問題意識を持つようになった。彼らは原発廃棄物のモンゴルへの輸出が検討されているが、その話はどこかおかしい、国際社会もこのことに目を向けて欲しいと私に訴えた。また、避難者のための雇用創出と住宅建設を進めるように、しかも今までのようにほとんどの仮設住宅を30km圏のすぐ外側に建てるのではなく、もっと離れた場所に建てるよう日本政府に圧力をかけて欲しいと頼まれた。

4日目—大阪、京都
私たちは新幹線で南西に向かうため、その途中の中間地点にある東京に戻って一泊し、今、緑茶の一大産地を通過中だ。ここは福島第一原発からの距離が500kmもあるが、茶葉は汚染されている。乾燥の工程を経ることで汚染は濃縮され、お茶の値は基準値を越えてしまった。第一原発から海に向かった風の流れが大きな弧を描き、500km南西に下ったところで再び陸に向かって吹いたためだと説明された。突然、2基の風車が見えた。日本で見る初めて風力発電機だ。スズキのものだという。電力料金が高いため、日本の企業の多くが自家発電設備を持っていると、私はこの時初めて知った。
昼過ぎに大阪到着。私が福島県で受けた印象を報告する記者会見の後、夕方に再び脱原発をテーマとする大きな会議が開催された。私の講演が終わると、京都でもう一つ別の会議が待っていたため、私たちはすぐにまた出発しなければならなかった。
京都でもテーマは脱原発だった。様々な活動家やイニシアティブのネットワーキングのために行なわれた会議後の非公式ミーティングで、私はドイツの様々な市民運動や緑の党が歩んできた道について詳しく質問された。ドイツ、とりわけドイツ緑の党から学びたいという要求は大きい。
5日目—静岡県新幹線で京都から掛川に向かい、そこからまた車で移動。私たちは浜岡原発のある自治体に着いた。ここには環境保護を訴える地方議会の議員が2名おり、私に浜岡の問題について教えてくれた。原子炉5基が、太平洋、フィリピン、ユーラシアの 3つの地殻プレートが集まる接点の真上に建てられている。この接点では平均して 120年毎に東海地震が発生しているが、最近の東海地震はマグニチュード8.4で1854年に起こっており、次の東海地震はとっくの昔に来ていておかしくない状態である。そこでかなり以前から大地震への警告がなされている。 2002年、住民が一番古い原子炉2基の停止を求めて訴訟を行なった。裁判所は和解を勧告したが、中部電力はこれを拒否した。原子力発電所の安全性に不安があることを一部でも認めることを避けたかったためだ。その後、中電は2基の原子炉を「経済的理由で」停止し、代わりに6基目の原子炉の建設を計画した。福島の重大原発事故を受けて、 6号機の建設は静岡県の川勝知事と菅首相によって阻止され、残りの 3基も運転が停止された。しかし、この先ずっと停止されたのではなく、 2年以内にまた稼働を開始する予定で、それまでに原子力発電所の前に高さ 15 mの津波防潮堤を築くのだという。
静岡県では、こうした政策に対する不満が高まっている。住民は原子炉の永久停止を望んでいる。周辺自治体は10 kmの避難区域を30 kmに拡大するよう求めている。農業中心の福島県と違って静岡県は380万人が暮らす人口密度の高い重要な経済地域である。通常の風向きで事故が起きた場合、1200万の人口を抱える東京首都圏は直ちに影響を受けることになる。
私たちは浜岡を視察した。静岡の市議会議員が市民の要請書を手にしていた。原発を運転する中部電力に手渡そうとしたのだ。中部電力は私と市議たちの面会の申し入れを事前に拒否し、要請書を受け取るために課長を送って来た。課長は私たちと議論する権限を与えられていないとのことで、要請書を無言で受け取った。私たちには新聞やテレビの取材陣が同行していたので、要請書を手渡した場面や中部電力側の態度は公にされた。私たちは御前崎市の副市長に面会を申し込んでいた(市長は面会できないと謝罪してきた)。私が副市長に浜岡原発問題に対する見解を尋ねると、日本政府が原発停止を命じたのだから、責任は政府にあると言う。副市長は雇用を心配していた。福島第一原発のような事態が浜岡でも起こるかもしれないという心配は、認めなくないという態度だった。私は再生可能エネルギーの雇用創出の可能性を指摘したが、副市長の耳には入らないようだった。副市長は市議の要請書を黙って受け取った。
その後、私は静岡県の川勝知事と面談した。知事は私を完璧な英語で迎えてくれた。話の流れを把握したいという私の随伴グループの求めで私はドイツ語で話し、通訳してもらった。川勝知事は英語で話を続けた。私の個人的な印象だが、知事は自分の発言を解釈に委ねたくないと考えたようだ。知事との面談は、責任ある立場にあると私の目に映った人々とそれまでに行なったどの話し合いよりも、格段に内容の濃いものだった。話している相手が政治家であり、行政担当職員ではないと実感できた。(私は今回、ドイツの連邦制度と権限分担のすばらしさを改めて確認したのだった!)。川勝知事は心配していた。津波防潮堤が安全を十分に保証しえないことを承知していた。知事は津波防潮堤は燃料棒プールを守るためにいずれにしても必要だと論じたが、話をするうちに私は知事が原発を停止したままの方がよいと考えているのではないかという印象を得た。また、エネルギー供給の未来を原発に求めるべきでないことを承知しているように見えた。それにも関わらず知事は肝心な所に来ると及び腰になり、中部電力は自社社員の保護のためにも正しい行動を取るだろう、そう同社を信頼していると述べた。
面会後の記者会見では、主に浜岡での重大原発事故の可能性が話題になった。地元の人々を駆り立てているのは福島での現実の事故よりも、こちらの方なのだ。
夜は地元の環境保護運動家との交流会があり、代替電源や、ドイツの再生可能エネルギー法がどの程度迅速かつ確実に実施されているのか、同法がどのように機能しているのか、風力発電施設建設への反対運動にはどう対応するのか、多種多様なグループをどのように一つの反原発運動にまとめてゆくのか、といった質問が出された。参加者たちは、脱原発はエネルギー政策転換全体の中の一部としてのみ実現され得るのだということをはっきりと認識している。私はその頃には講演を締めくくる際に必ず、エネルギー政策転換に向けた日本の強みを列挙するようになっていた。ドイツを上回る日照、水、風力の豊かさ、波浪エネルギー技術の研究と利用を促すどこまでも続く海岸線、高い教育を受けた人材、テクノロジーへの理解と技術革新力を備えた経済。日本人の伝統的な自然への畏敬の念に原子力発電への依存は馴染まない。浜岡の美しい海岸には、建設が計画されている 15mの防潮堤より風力発電パークのほがずっと似つかわしいはずだ、と。

6日目—東京新幹線で東京に戻る。視察旅行最後の日はこの一週間の総括に充てられた。共同ニュース、毎日デイリーニューズ、朝日新聞などの大手日刊新聞の記者から幾つかの個別インタービューを受ける。その後、 2時間にわたる一般記者会見があった。反原発運動にとっての重要な情報発信者であるジャーナリスト岩上安身氏が記者会見に出席できないので後でインタビューしたいそうだが受けるかと聞かれ、私は当然一も二もなく承知した。ドイツ緑の党のメンバーとして福島原発事故直後に日本の環境保護運動家の招きで来日する機会に恵まれたのだから、この機会をできる限り有意義なものにしたいと思ったのだ。 18時に東京のみどりの未来のメンバーから有機農業のレストランでのお別れ会に招かれ、彼らと初めて交流する。ビュッフェの料理は、大きな茶碗に盛られた飯とみそ汁がなかったら、ドイツ緑の党の会合にも出せそうな料理ばかり。雰囲気も似通っている。まさにグリーンなライフスタイルだ!
このフレンドリーな緑のコミュニティーを早めに辞するのは後ろ髪を引かれる思いだったが、一つアポイントが待っていた。夜の東京の街中を通って私たちは岩上氏のもとに車を走らせた。岩上氏は「ニュースの裏のニュース」を発信しており、批判的なグループは同氏に信頼を寄せている。だが、一般メディアが岩上氏の意見をますます冷遇するようになったため、同氏はライブストリームやユーチューブを通じて発信を続けている。私たちは21時からライブインタビューを開始した。インタビューは60分間の約束だったが、2時間に延びた。23時に私たちがインタビューを終えた時、誰よりも通訳が疲労困憊していた。しかし私たちは満足だった。メッセージは一つ残らず伝えた。私と来日した緑の党の随行グループもハッピーだった。この旅行は組織も収入もほとんどない日本の緑の党にとって大きな投資だった。誰もがこの一週間、全力投球した。

5月21日土曜日東京からヘルシンキ経由でベルリンに戻る。