100通りの『学び合い』 | 与太郎の一歩

与太郎の一歩

ちーばくんの(千葉県)口元辺りに住んでいます。
『学び合い』のことや、その他教育関係の学び、私生活などについて書きます。
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『学び合い』は方法でとらえても、まあ人間関係は格段に良くなる。
だが、そこから成績を良くしよう、もっと男女の仲をどーのこーの・・・ってなると
難しい。


『学び合い』を考え方で捉えると

「このクラスの子ども達に、どんな姿になって欲しいのか」という教師(担任)の願いから始まる。
端的に言えば、立ち返る場所は

「学級目標」だ。

いつもそこに立ち返る。

そして授業の中で「教師が求める子ども達の姿」があって

その姿になるために
本時の「核」となる、押さえるべき課題が設定できる。

そして評価は
「全員が課題ができたのか。わかったのか」
「学級目標に対して自分の学びはどうだったのか」
を振り返ることである。

この
1、「子ども達に、どんな姿になって欲しいのか」(学級目標)
2、「授業ではどうなってほしいか」
3、「課題設定」
4、「全員ができた、わかったのか」と「1に立ち返り、評価」

この1~4のサイクルが集団を「方法レベル」から脱しさせる。

『学び合い』は教師一人の力ではすべての子どもに授業内容を理解させることはできないという
視点に立つことから始まる。

決して「人間関係を良くするための学習方法ではない」

「一人も見捨てず、課題を達成するための手段」なのだ。



これは全校『学び合い』でも同じだと思う。

「この地域の子ども達をどうしたいか」という学校目標があって
そのために『学び合い』をする。

つまり、こう考えると
「クラスの数だけ」(教師の願いの数だけ)
「学校の数だけ」(地域の育てる子ども像だけ)

『学び合い』があるという結論に至る。

ということは
「うちの学校独自の『学び合い』・・・」というならば
「方法」ではなく「目指すべき子ども像」に違いがあり、そして手段が違ってくる。

肝心なのは「それをどの子どもも説明できること」
それは教師と教師集団の語りと言動にかかってくる。

教師の言葉を理解しているのは2割だとしても、一人も見捨てずどこまでできるか。

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まあ西川研究室の運営の『学び合い』は
基本的に1と4をするだけなんだけどね。

方法は完全に問わないわけだ。
「どんな姿でもいいよ。結果さえ出してくれればね」

そして4をするのも基本的には集団。

何かが緩んできたり、必要な時だけ管理者の出番。
あとは環境の整備が管理者のメインの仕事。
そして評価は一番最後。

でも大学って本来はそうゆうもんだよね。

そしてそれをすることが自分たちにとって「得」だと理解していることが重要。

2割が、4割を引きつけ、
6割が2割を引きつけ、
8割が2割を巻き込む。