NOTE/浮田典良著「地理学入門」・・・(4)
【書誌情報】
浮田典良著「地理学入門 マルティ・スケール・ジオグラフィ」
2004年 原書房
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本ブログ内関連記事
【p.62】
農業地理学は、工業地理学や商業地理学などとともに、経済地理学の1部門をなす。
【p.63】
1990(平成2)年からは農家の定義や分類法が変わって
農家は「販売農家」と「自給農家」に大別された。
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自給農家=経営耕地30a未満、農産物販売金額50万円未満
(総農家数の25%を占める/2000年)
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西南日本の農村風景…福岡県柳川市にて本ブログ管理者2005.5.25撮影
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福岡県柳川市では、かつて排水は、敷地内の溜枡や「タンボ」と呼ばれる池に溜めて沈殿させてから流したり、水芋を植えて水を浄化させ、直接掘割に流すことはなかったそうだ。。。
土に返す装置のことを、「タメ」とか、「タンボ」とか呼び、屋敷の一角に大きな素掘りの穴を掘って、そこに落としていた。
「タメ」「タンボ」の中には、浄化者の代表格・・・ちょっと色の白い、太ったシマミミズがたくさん住み着いて、下水の汚れを食べてくれていた。。。。。
【p.64】
西南日本の水田では、かつては裏作として、麦類や採種などが栽培され、
二毛作が行われていたが、近年はほとんど行われていない。
(米の生産調整)
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畑作物のうち、麦類・豆類・いも類は、かつては重要な食糧作物として
全国で作られていたが、1960年代以降、食糧事情の変化や、
安価な輸入品による圧迫で生産量は激減・・・・・
JR小海線の車窓から、、、(本ブログ管理者2007年8月撮影)
【p.75】
高原野菜・・・
例えば、浅間山北麓、海抜800~1500mに位置する嬬恋村では、今では耕地の80%がキャベツ栽培に利用されている。
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嬬恋村の人々は、昭和の初めまでは、自給的な雑穀農業と駄賃稼ぎ、山仕事に依存して生活していたが、1930(昭和5)年ごろ、夏物のキャベツや白菜が導入され、1940(昭和15)年にはキャベツの栽培面積は57haとなった。
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大戦後の1950(昭和25)年/青果物統制の廃止
(貨車やトラックによる東京への出荷が加速)
キャベツ栽培面積
・1955年( 400ha)
・1960年( 728ha)
・1970年(1414ha)
↓
しかし、
1968(昭和43)年ごろからキャベツの連作に伴う病害が蔓延したので、それを回避するために、輸送体系の確立が急務・・・
栽培面積を減らさずに輪作を実施→大規模農地開拓
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1970年以降、国営・県営のパイロット事業による農地造成事業が進展
1970年から78年にかけ、標高1100~1400mの国有林を開いて約850haの農地が造成された。
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結果、嬬恋村のキャベツ栽培面積は・・・・・
・1980年(2200ha)
・1990年(2550ha)
1988(昭和63)年の出荷状況(7月下旬~10月中旬が出荷時期)
関東地区(61%)、京阪神(15%)、中部中京(12%)・・・・・
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各農家の経営する圃場は、900m~1400mまで、さまざまな標高の地点に分散
(標高が異なるそれぞれの圃場の条件に合わせて作業日程や栽培品種、栽培方法を変える=労働の効率的配分、価格政策面でのリスク分散)
定植スケジュール例
4~5月(標高の低い圃場→高い圃場へ移行)
6月以降(高い圃場→低い圃場へ順次移行)
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高い圃場=栽培可能期間が短い
低い圃場=栽培可能期間が長い
育苗計画(定植スケージュールに合わせた工夫)
5月まで(長野群馬…近隣各地標高100~900mの育苗物を利用)
6月以降(地元の育苗圃で栽培)
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農家は標高が異なる幾つかの地域に少しずつ圃場を借り、播種日をずらしながら育苗することで、本圃におけるキャベツ定植日の違いに対処
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「垂直式環境利用方式」
出典:丸山浩明「火山山麓の土地利用」1994年、大明堂、p.160
(埼玉県朝霞市浜崎2丁目/本ブログ管理者撮影)
【p.78】
都市に近いほど多い、、、
・「野菜作農家集落」
・「野菜を主とする混合集落」
・「自給農家集落」
・「自給農家を主とする混合集落」
・「野菜作農家・自給農家集落」
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都市近郊では、
野菜作に重点を置く集約的園芸農業への志向と、
兼業化による自給的農業への志向が、両方とも並行してみられる。
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東京都清瀬市下清戸3丁目にて、、、(本ブログ管理者撮影)
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