★日本人だけが知らない、世界から絶賛される日本人★
『私は幼い時、母から、『日本は幼くして目がまったく見えなくなってしまったのに、努力して立派な学者になった塙保己一(はなわほきいち)先生という方がいました。あなたの人生の目標になる人ですよ』と聞き、苦しい時、辛い時もくじけず努力することができたのです』
~ヘレン・ケラー~
盲目の大学者として、戦前は修身の教科書などで取り上げられていた人物に塙保己一(はなわほきいち)がいる。
保己一は、江戸時代の1746年、現在の埼玉県に生まれた国学者である。
7歳の時に病気により視力を失ったが、その後、苦労しながらも学問で身を立て、国文学・国史を主とした666冊にわたる一大叢書(そうしょ)『群書類従』の編纂(へんさん)を成し遂げることとなる。
彼は、自ら重度の障害を負いながら各国の障害者教育、平和活動に貢献した世界的偉人、ヘレン・ケラーが目標とした人物であった。
彼女は、1937年4月26日、来日した際の講演で、次のように語っている。
「私は幼い時、母から、『日本は幼くして目がまったく見えなくなってしまったのに、努力して立派な学者になった塙保己一(はなわほきいち)先生という方がいました。あなたの人生の目標になる人ですよ』
とよく話してくれたものです。
日本は幼くして目がまったく見えなくなってしまったのに、努力して立派な学者になった塙保己一(はなわほきいち)先生という方がいたと教えられました。
それを聞いて、私は励まされて、一生懸命勉強しました」
(堺正一著『塙保己一とともに』はる書房刊)
また同年、保己一が生まれた埼玉県を訪れた際には、
「私は特別な思いを抱いて、この会場に参りました。
いつか日本に行ってみたい。
日本に行ったら必ず埼玉を訪問したいと長い間思っていました。
その夢が、今日かないました。
それは、私が人生の目標とし、苦しく、辛く、挫けそうになった時に心の支えとした人が、この埼玉ゆかりの人物であったからです。
その人の名は『塙保己一』といいます」
とまで語っているのである(同書)。
塙保己一(はなわほきいち)は、7歳で失明した後、10歳で学問を志したと言われる。
12歳で最愛の母親が過労で死去、悲しみの中で、保己一は江戸で学問を学びたいという気持ちを募らせていった。
こうした不幸にもかかわらず、保己一は父親を説得し、15歳で江戸に出る。
ただし、盲人にとって学問は無縁だと考えられていた時代であり、事実上、職業は三味線や琴などの音曲、あんまと針の医術、座頭金と呼ばれた金貸しに限られていた。
保己一も当初は検校の雨富須賀一(あめとみすがいち)が率いる盲人の職業団体に入門し、あんまや針、音曲を習うが、もともと学問を志していたため身につかず、さらには座頭金の取り立てができずに、自殺しようとした。
だが、直前で思いとどまり、師匠の雨富須賀一に、学問への思いを告げた。
保己一の一途な思いに心を動かされた師匠は、保己一にさまざまな学問を学ばせる。
国学・和歌は荻原宗固(そうこ)、漢字・神道を川島高林(たかしげ)など、当代の一流文人から教えを受けた。
さらには、国学の大家・賀茂真淵(かものまぶち)にも師事している。
もちろん保己一は目が見えない。
そこで、書物を人に読んでもらい、それを記憶していったのである。
やがて保己一は、1779年、34歳のときに「神皇正統記」や「懐風藻(かいふうそう)」などの貴重な古書の散逸を危惧し、これらを収集、編纂(へんさん)して版木として残すことを決意する。
以後41年にわたり心血を注ぎ、ついに74歳のときに「群書類従」が完成する。
保己一はまた、後継者を育てるための「和学講談所」の開設も行っている。
これは現在の東京大学史料編纂所として受け継がれている。
こうして盲目の大学者となった保己一を慕って、さまざまな文人がその門下に入っている。
たとえば、すでに当時有名な学者だった平田篤胤(あつたね)も門下生となり、また、頼山陽(らいさんよう)も保己一に教えを請うている。
1821年、保己一は盲人社会の最高位である総検校にまで上り詰める。
同年、76歳で死去した。
明治時代の文豪・幸田露伴(こうだ ろはん)は、保己一の功績について、次のように述べている。
『塙保己一は、散逸の恐れがある貴重な文献や書物を後世に伝え、誰もがじかに手に取ることを可能にした。かつては秘伝と称して特定の人だけに授けられてきた学問の開放、普及に貢献した』
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