ベーカリーカフェ「レンガ」と、桐生まちなか散歩♪
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ベーカリーカフェ「レンガ」
群馬県桐生市東久方1-1-55(↓地図中⑦の位置) TEL0277-32-5553
営業時間08:00 ~ 18:00(LO17:30) 無休
(本ブログ管理者実食のうえ撮影)
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旧「金谷レース工業株式会社」の建物をコンバージョンしています。
鋸屋根の織物工場は、明治22年に設立された日本織物株式会社を最初に、昭和44年頃まで盛んに建てられました。
現在でも約260棟が残っていますが、煉瓦造の鋸屋根工場としては市内で唯一の建物となってしまいました。
煉瓦壁体はイギリス積みと呼ばれる工法が用いられ、使用されている煉瓦は埼玉県深谷市の日本煉瓦製造株式会社製です。
当初は8連の屋根でしたが、北側に新工場を建設したため最期は4連になり、現在に到ります。
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老舗の工場として稼働していましたが、繊維業界を取り巻く情勢の厳しさから、ひっそり廃業していました。
跡地利用に注目が集まっていましたが、
地元のパン屋「ルパン」が土地建物をそっくり買い取り、2008(平成20)年4月23日に古くからの雰囲気を生かしたベーカリーレストラン「ベーカリーレンガ」として再生。
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国登録有形文化財登録年月日 平成10年12月11日
建築構造 木骨煉瓦造平屋建 鉄板葺
建築面積 298㎡
建築年代 大正8年(1919)
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【旧「金谷レース工業株式会社事務所」】
昭和初期における建造物の全国的な流行にのり、桐生市内でもスクラッチタイルを貼った建物が流行しました。
この事務所は木造二階建てのスクラッチタイル貼りで、水平線を強調したライト建築の特徴をもっており、特に、窓や細部に至る意匠に時代的な特徴が見られます。
事務所と鋸屋根工場を比較してみると、大正と昭和の時代的流行の違いがよくわかります。
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国登録有形文化財登録年月日 平成10年12月11日
建築構造 木造二階建
建築面積 71㎡
建築年代 昭和初期
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出典/
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ベーカリーカフェ「レンガ」のコーヒーセット、、、
コーヒー(アイスorホット)+店指定のパン3つ+サラダで578円!
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桐生市(きりゅうし)
群馬県の東部に位置する市。
日本有数の機業都市であり、奈良時代から絹織物の名産地として知られ、桐生織と呼ばれる高級織物で京都・西陣と並び称された。
その歴史を物語るように、市域には数多くの文化財、史跡などが残されている。
1921(大正10)年の市制施行当時の区域は旧山田郡。
現在の市域は、旧山田郡・足利郡・安蘇郡・勢多郡で構成される。
市域人口は12万人(人口密度439人/km²…2011.7.1現在)。
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地名の由来は、「桐が多く自生する土地」から「桐生」とも、「霧が多く発生する土地」から「霧生」とも言われているが、どちらも決め手は無い。
明治期に山田郡桐生新町を中心とする市町村合併がなされ、桐生町となった。
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伝建地区の街並み…(地図中⑧/本ブログ管理者撮影)
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伝建(=「伝統的建造物」)が多く残る地区は、
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桐生市中心市街地の様子…(地図中⑨/本ブログ管理者撮影)
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“ちょっとした”地方の「拠点(中核)都市」の雰囲気。。。
中層の商業建築(雑居商業ビル)が建ち並なび、
中心商業地が「面」的に拡がっている様子がわかります・・・・・
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JR両毛線の高架脇には、「まちなか居住型」の公営住宅がありました…
(↑地図中⑩/本ブログ管理者撮影)
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桐生市では、市内全域で空き家対策に取り組み、都会やその他の地域の生活者を対象に「移住・交流」を推進しています。
最近、「二地域居住」をしたい人や「まちなか」に住みたいという人、「田舎暮らし」に興味のある人から「空き家はありませんか?」という問い合わせが増えているのだそうです。。。
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桐生市営「本町6丁目団地」概要
建設年度 平成16年度
所在地 群馬県桐生市本町6丁目372-2
戸数/棟数/階数 24戸/1棟/6階建
間取り
1DK (6)洋・DK
2DK 6・(4.5)洋・DK
3DK 6・(6)洋・(6)洋・DK
家賃(参考) 19,400円 ~47,500円
備考
駐車場なし 単身者可8戸
水洗トイレ、都市ガス、エレベーター有
浴槽・風呂釜(給湯機能付)
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かつての河岸は、駐車場に転用…(地図中⑪/本ブログ管理者撮影)
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川岸町(かわぎしちょう…群馬県桐生市の町名)
2005年(平成17年)の国勢調査人口は17人。郵便番号は376-0036。
桐生市の中部に位置する。
東部は仲町に、南部は浜松町に、西部は錦町に、北部は本町・旭町にそれぞれ接する。
現在の町域は住居表示が実施されずに川岸町として残った地域であり、住居表示の実施により町名が変更された旧川岸町域は、現在の仲町三丁目の南部にあたる。
町名はかつて市内を流れていた新川に由来する。
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新川(しんかわ)
渡良瀬川に架かるJR両毛線の鉄橋下、丸山下赤岩から桐生市街を東流し、桐生川に合流。
全長2.5km。
桐生国綱が観応元(1350)年桐生城(檜杓山城)を築いたとき、渡良瀬川の還流が瀞堀となっていたものを改修し、渡良瀬川の水を引き入れ、桐生川に流すことによって桐生城南方の要害にしたという(関東庭軍記)。
下瀞(しもとろ)とも呼ばれた。
桐生城が廃城となったあと、引き入れ口がふさがりもとの瀞堀となったが、弘化年間(1844~48)、明治2(1869)年、同3年の大水の際に渡良瀬川の放水路の役目を果たした。
川筋の新宿・境野村には迷惑なことなので、赤岩の引き入れ口締め切りをめぐる騒動もあったが実現しなかった。
新川と名づけられたのは明治9(1876)年である(桐生市史)。
現在は新川地区整備計画に基づき市街地内は暗渠とされ、道路や駐車場になっている
(出典:平凡社「日本歴史地名大系第10巻 群馬県の地名pp..659-660)
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荒戸新町の創設(荒戸=安楽土は現在の桐生地域の旧名)
1590年、桐生領は、徳川家康氏直轄地となった。これまで、黒川山中を含む桐生領五十四か村の村域は、梅田の柄杓山城を本拠とした(桐生氏を滅ぼした領主になった)由良氏の支配下にあった。由良氏は、後北条氏に味方したため、常陸牛久へ国替えとなり徳川氏の代官頭大久保長安の支配地へと替わった。大久保は関東入国後、代官頭となり榊原康政のもとで家臣団の知行割領国内の検知にあたった。
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1603年、家康は征夷大将軍(幕府の主宰者)となり各地を巡視し、駿府・江戸から書状により指示を与えた。山地と平地の接続したところに位置する八王子・青梅・桐生の町創設、石見・佐渡・伊豆の鉱山開発、東海道・中山道の宿駅整備、江戸駿府・名古屋の築城など、治水・鉱山・築城の技術に手腕を発揮し、幕府財政の礎を築いた。したがって、今日私達が知る桐生は、彼の管理下で創設されたのである。
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長安の地方支配は、武蔵八王子の陣屋を拠点として、各地に出張陣屋をつくり、手代わりを派遣して、支配にあたらせた。
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1590年、長安の命を受け、桐生領を支配するために派遣された手代わりの大野尊吉は、桐生領の触元としては、狭く、規模が小さいため、桐生川扇状地上に位置する荒戸原に新町をつくって町屋を移すことを考え、久保村の南端を基点として、北は赤城ノ森までの直線状五町余を用地に充てることとした。当時すでに、荒戸原扇央部に、北から南にかけて通路があった。
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この通路は1573年の由良成繁の桐生領支配と、1584年の由良国繁の柄杓山城への国替えにより、桐生・太田間の往来が繁くなったため(太田は由良氏の旧領土)、久保村町屋からの近道として、長い間本道であった美和社沿いの回り道を避けてつくられたものという。(現在の桐生西部にある山手通り)
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桐生・太田間の生活物資輸送は、新田堀・渡良瀬川・桐生川を経て、下瀞堀(中世期に桐生国綱のつくった堀割)へ至る舟運によった。
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大野は、久保村峯(現寂光院境内)の丘陵を削り取って平らにし、陣屋をつくり拠点とした。新町の町並みは、荒戸原の通路を広げて約2メートルとし、奥行約13メートルにして、なるべく多くの商人が大通りに面した店を持てるようにした。通路の西側にさらに通路をつくり陣屋への通路とした。周囲の町境に、土手を築いて郭とし、通路の西側に用水路をつくった。この水路は最終的に桐生川に抜けている。1591年に新町の町並みがととのったところで、久保村鎮守の梅原天神社を赤城ノ森へ移した。(後の天満宮)
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当初は五町余であったが、1605年に南へ11町余の縄張りをして、下瀞堀までの町並みをととのえ、三丁目・四丁目・五丁目・六丁目とした。そして、通路西側の用水路を延長し、下瀞堀へ抜けるようにした。
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大野は、創設した在郷町への支配下の村々から、子供2人以上の世帯では、そのうち1人を移住させたり、近郷からの入植者をつのったりして、戸数・人工の増加をはかった。このため、住民の権利は、旧住者も新来者も同等であり、排他の傾向はみられない。住民間の階級制もゆるやかで、常に新興の気風に満ちていたのだそうだ。。。。。
(出典: □外部リンク参照 )