JAL123便墜落事故の出回っている話はウソばかり
  ~中曽根総理の別荘における盗聴内容






【重要追加説明】 
JAL123便墜落事故の出回っている話はウソばかり

http://ameblo.jp/64152966/entry-11328824364.html

以上の累計10万アクセスあった記事の続編です。
カルト工作員の方々も、たくさんいらっしゃいました・・笑。


2009年3月29日 (日)
ブログ「日航機墜落事故の真相」 (2)
http://johnbenson.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-3143.html

<一部分のみ引用>


もう一つ中曽根元総理の別荘における盗聴されたとされる発言があります。
それが真実であるか否かは闇の中。

その中の言葉に官邸からの矢の催促の撃墜命令要請に対して。

「私はこんな事のために総理大臣になったわけじゃない」......

総理がみぞうの都市部墜落の大惨事を恐れて許可する条件として言い出した。

「国民に撃墜を知られないようにできるなら許可しよう」、

目撃者が出たらどうしますかに対して

「何とかしろ」「殺せという意味ですか」に対して

「私をこれ以上人殺しにするつもりか」と怒鳴り

「何とかしろは何とかしろという意味だと」怒鳴っていた。

<引用終わり>





2007年09月25日
● 事件はどの時点で首相に伝えられたか(EJ第1078号)
http://intec-j.seesaa.net/article/57079977.html

<転載開始>


JAL123便墜落事故が起こった8月12日、
中曽根首相は身内と一緒に軽井沢で休暇を過ごしていたのです。
そして、軽井沢駅を17時11分に発車する特急「あさま22号」
に乗り、東京に向っています。

大宮着18時52分、上野着は19時15分でした。
この時点では首相はまだ事故を知りません。
 
18時52分といえば、
JAL123便がレーダーから消える2分前です。

18時24分40秒には緊急信号を発信しているのですから、
大宮駅で「日航機が迷走中」という情報を首相に知らせること
はできたはずですが、首相の耳には届いていなかったのです。

上野に到着した19時15分には事故発生は確実で、
「行方不明」になっているのに、ここでも中曽根首相には
報告されていないのです。
 
上野駅から公邸まで、首相は自動車電話の付いている首相専用車
に乗り、19時47分に公邸に到着しているのですが、車中の時間
が約30分もあるのに、首相への報告はなかったとされています。

依田秘書官によると、「行方不明」という情報だけではどうしよう
もないので、報告しなかったというのですが、不思議な話だと思います。
 
そして、首相は公邸前で待ち受けている新聞記者から
JAL123便事故のことをはじめて聞き、「ほぉー、どこで?」と
驚いたというのです。

一国の首相が、これほどの大事件の情報を新聞記者からはじめて
聞かされるというのは、この国の危機管理体制の欠如を物語っています。
しかし、これにはかなりウラの事情がありそうです。
 
昨日のEJでも述べたように、官邸にいた平沢官房長官秘書官には
19時頃――つまり、墜落直後に運輸省航空局、防衛庁、警察庁から
相次いで報告が入っていたのです。

平沢秘書官は直ちに、藤波官房長官に連絡をとって第一報を入れています。
このときは官房長官と連絡がとれたのです。
しかし、それから30分近く連絡がとれず、やっと連絡が取れて、
平沢秘書官は藤波官房長官に2度目の報告を次のようにしているのです。

-------------------------------

  JAL123便の大坂着予定時間を過ぎました。事故発生は、
  ほぼ間違いないと思われます。大至急お戻りください。
                ―――平沢勝栄官房長官秘書官

-------------------------------

そして、藤波官房長官は19時45分に官邸に戻り、
すぐその2分後に中曽根首相は公邸に戻るのです。
首相が戻ると、依田秘書官は、はじめて事故の状況を立ち話で
首相に伝えます。その間わずかに1分間。

その後首相は19時48分から予定に組まれてあった
河本敏夫国務大臣との会談に入っています。
 
実はこの頃、三光汽船問題というのがあって、三光汽船の元社長
である河本氏は苦境に立たされていたのです。
首相との話はこれがテーマで辞任うんぬんがやりとりされたと
いわれています。
そして、その会議が終ったのは、20時1分のことです。
 
そして20時16分――藤波官房長官と副長官が公邸に駆けつけて、
16分間首相とJAL123便事故について報告が行われています。
終了したのは20時32分です。
 
その後、官邸の大広間で事故対策本部の初会合が、
23時から行われています。
しかし中曽根首相がそこに顔を出したという記録はないのです。

そして、翌13日、午前5時30分に就寝中の首相に対して、
墜落現場が中曽根首相の出身地の群馬県であることが伝えられて
いますが、とくに反応がなかったといいます。
 
しかし、以上はオモテの話です。
中曽根首相は公邸に着く前にJAL123便墜落事故のことは
知っていたと思うのです。
それでは、その話はどの時点で首相に伝えられたのでしょうか。
 
事件が起こったとき、
首相は東京に向かう特急「あさま」の車中にいたのです。
ここで伝えられたとは考えにくいのです。
当時は、自動車電話はありましたが、今のように常時携帯電話を
使える状況ではなかったからです。

それに、首相のようなVIPは、セキュリティの関係から
携帯電話は使用しないはずです。
 
そうなると上野から公邸に向かう車の中しかありません。
すなわち、19時20分頃(上野着は19時15分)から、
19時47分の間です。
相手は、藤波官房長官であると思います。
この時間帯に平沢秘書官は官房長官と連絡がとれていないのです。
 
それでは藤波官房長官は、事故の連絡を何時頃受けたのでしょうか。
平沢秘書官からの連絡は午後7時頃ですが、それよりも前に官房長官
はJAL123便が墜落するいきさつについて、
報告を受けていたと思うのです。

推測ですが、その時間は
JAL123便が2機の自衛隊機とやりとりをして、
横田基地を前にして御巣鷹山方向に旋回した頃――18時50分前後
ではないかと考えられます。

その頃中曽根首相の乗る特急「あさま22号」は、
大宮に到着する直前だったのです。
 
それでは報告者は誰でしょうか。
それは加藤紘一防衛庁長官しかいないと思います。

2機の自衛隊機からの報告で、JAL123便の尾翼に
実験用ミサイルの衝突の跡があることがわかって自衛隊幹部は、
横田基地への着陸を阻止したのですが、そのことについて、
加藤防衛庁長官が首相に報告しないはずはないと思うからです。
そこで、加藤長官は官房長官に連絡したのです。
 
そこで、藤波官房長官は、上野から公邸に向かう車中で首相に報告し、
指示を仰いでいるはずです。
その結果、首相はあくまで知らなかったということにし、
できるだけ早く幕引きを図ることが話されたと思います。
内閣存続の一大事であるからです。

上野から公邸まで異常に時間がかかっているのは、
そういう話があったからではないでしょうか。
 
その後の中曽根首相のこの問題への対応は、
口では「事故原因はできる限り迅速に徹底的にやらせる」といいながら、
事故調からの調査のための特別予算の請求を一蹴するなど整合性がなく
事件の隠蔽に全力を尽くしたとしかいえないのです。
そして、首相は最後まで墜落現場には行っていないのです。
   ・・・[御巣鷹山事故の謎/25]


<転載終わり>




管理人

以上の二つの記事を眺めてみると・・・
中曽根元総理の別荘における盗聴されたとされる発言は、
はっきり捏造されたデマであることが分かります。

一体何の為に・・・
つまり、JAL123便墜落事故は、航空自衛隊の過失であり、
日本政府は、その隠蔽に奔走していたといったシナリオに
持っていきたい連中がいたという事になります。
しかし、事実はまるで違うという結論になりそうですが・・・

一体誰が、捏造されたデマを流したのか?

米国の手先となった防衛利権族の売国奴の連中の可能性。
無論、最初からシナリオを渡されていて、その通りに動いたに
過ぎないと思われます。
シナリオを申し伝えたのは、米国CIA以外にはいないだろうと
私は思っています。

これは、あくまでも私の個人的な考えとしてですが、
中曽根元総理は、およそのことは既に知らされていたのではないか。

当時の中曽根総理に対して、強硬に、プラザ合意をのむ様に
指示があったのは明らかです。
彼は、完璧でガチの米国傀儡の政治家でしたから、当然でしょう。

しかし、産業界や官僚組織は猛反対だった訳です。
それをバックにした政治家連中ものめない話だったのです。
当然、当時の竹下登大蔵大臣も反対の立場でした。

米国からは、猛烈な圧力があり、日本国内では、猛反対する
大きな勢力の存在があって、その板挟みにあった当時の
中曽根総理の苦慮は、容易に想像が出来ます。

そういった中、米国は強硬手段を講じて、当時の中曽根総理を
後押ししたという訳です。
あの当時の竹下大蔵大臣は、まだガチの米国手先ではなかったと
思われますし、自民党清和会の政治家でもありませんでした。
中曽根は、竹下登大蔵大臣をそれとなくさとし、更には、
他の閣僚の説得にも成功したという流れだったのではないかと
推測出来る訳です。

『また、あんな事故?が起きると大変困るから』

『ねぇ、君!』
・・・と。

JAL123便墜落事故から40日ほどして、日本国政府が
プラザ合意をのむ決断をしたのは歴史に記されている通りです。

このあたりからです・・・
検察、警察、官僚組織、政治家といった組織に、
次々と宗教カルトの連中が浸食していったのは・・・
日本の重要な骨格をなす中枢組織が、次々と腐食していきました。
無論、もっと簡単に日本を思うように動かす目的の為でしょう。
宗教カルトの大親分は、言うまでもなく米国CIAです。
新興宗教のほとんどは、その配下にあると申し上げておきます。
しかし、一般信者さんは、何も知りません。
日本国民も同じで、何も知りませんが・・・笑。

しかし、それらの秘密文書は、その一切が消されたようです。
今日において、削除されまくられるのは、もう皆さん、
嫌というほど目にされたでしょう・・・笑。


最後に、中曽根総理は最後まで墜落現場には行っていないのです
とありますが、行かなかったのではなく、行けなかったのでしょう。
何故なのかは、皆さんにはお分かりになると思います。



もう既に、ご存じの方も多いと思いますが、
更に、詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧下さい。


日本は、テロ攻撃を受け続けている!~まさに戦時下!
http://ameblo.jp/64152966/entry-11232911544.html

<一部引用>

恐ろしくて、しゃべれないのですよ!

事故調査にあたっていた前橋地検の山口悠介検事正は

事故原因を、ぎりぎりまで追究すれば、戦争になる!

と発言しています。

本物のボイスレコーダーも公表していませんね!

これにあわてた中曽根は、40日後の昭和60年9月21日に、
プラザ合意をしたのです。
そして、1ドルが、250円に決まったのですね!