名探偵・外山恒一の冒険3 『ファイト・クラブ』----“映像の乱れ”の謎 | 我々少数派

名探偵・外山恒一の冒険3 『ファイト・クラブ』----“映像の乱れ”の謎

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 (ネタバレを気にせずどんどん書いちゃうので、未見の人はまず観るよーに)

 『ファイト・クラブ』(デヴィッド・フィンチャー監督、エドワード・ノートン&ブラッド・ピット主演、99年)はどうも語りにくい映画のようである。
 評を検索すると、かなり詳細で、かつそれなりに教養ある人の手によるらしいものがいくつも出てくる。しかし、どれも歯切れが悪い。その理由も明らかであるように思われる。
 現代社会のありように抑圧された人々による反乱が描かれており、そういうのが好きな人にはたまらない内容である。が、その反乱の様相が露骨に“ファシズム”的なのである。良識ある人々は、「ファシズムは良くない」という良識に縛られて、ファシズム礼賛とも見えかねないこの傑作映画を、しかし傑作であることは否定しがたいために、「こんな傑作がファシズム礼賛映画であるはずがない」「何か“隠された深遠なテーマ”があるはずだ」とあれこれ強引な好意的解釈を試みる。いわば作品外から「ファシズム=悪」というイデオロギーを持ち込むことによる、不自由な批評へと逃避するのである。
 たしかに、ネット上のある評者が云うように、ファシズム運動を指導した主人公の死が結末で暗示されている、と考えることはできる。最高指導者タイラーは、金融街の爆破を目論んでおり、組織の幹部である(と自分ではそれまで思っていた)主人公は映画の終盤、その計画を止めようと奔走するが、爆弾の起爆装置を解除しているところをタイラーに発見され、逆に拘束されてしまう。当然、起爆装置はタイラーによって元通りにセットし直されただろう。最終シーン、主人公とタイラーとの対決の場面は、その同じビルの最上階であると評者氏はほとんど勝手に決めつけている。たしかにエンド・クレジットの直前、タイラーを倒した主人公と恋人マーラは手をつないで窓際に立ち、近隣の他の高層ビルが次々と爆破されて崩れ落ちる光景を眺めている、という画面がグラグラっと乱れて映画は終わる。この画面の乱れを、主人公たちがいるビルも倒壊し始めたこと、つまり彼らの死の暗示だと評者氏は見るわけだが、果たしてそう云い切れるものだろうか? 至近で次々と大きな爆発が起きているところなのだから、主人公たちのいるビルも、それ自体が爆破されたのでなくとも衝撃で揺れたりする可能性もあるだろう。第一、評者氏のように解釈することは、ここまでのストーリー展開上かなり不自然である。
 拉致された主人公がタイラーに銃口を突きつけられた状態で意識を回復し、最終シーンが始まる。まずタイラーが「あと3分だ」と云う。爆発まで、の意味である。対決の対話が進み、やがてタイラーは「あと60秒」と云うが、その時点でもタイラー自身は少しも緊張していない。主人公はともかく、タイラーの方はこの爆破計画に何ら疑問を抱いてはいないのである。当然、19世紀のロシアのテロリストたちが辿り着いたような、「他人を殺す者は自らも死ななければならない」的な“暗殺の美学”に基づいて、爆破予定のビルに留まることによって自らを処罰しようなどと覚悟を決めているはずもない。そもそも一連の爆破によって死者を出すつもりもタイラーにはない。起爆装置解除の場面で主人公は、「他にも10コのビルにそれぞれ爆弾が仕掛けられている」と云うタイラーに、「いつから“騒乱計画”に殺人が伴うようになった?」と問い質すが、タイラーは「みんな無人のビルだ。誰も殺さない。むしろ彼らを自由にしてやるんだ」と答えて平然としている。件のロシアの心優しきテロリストたちだって、まだ誰も殺さないうちに自決したりはしないだろう。
 しかも主人公がタイラーを倒した後、つまりタイラーが「あと60秒」と口にしてからさらに何十秒か経過したところに、タイラーの手下たちが、“騒乱計画”の秘密の一端を知ってしまったマーラを拉致して、主人公のいる部屋に連行してくるのである。タイラーとの対決で重傷を負った主人公を心配する彼らを引き下がらせ、マーラ1人を自らの手元におき、他の者は階下で主人公たちが後から降りてくるのを待つように指示する。もうあと10秒かそこらで爆発、という場面である。「下で会おう」も何もなかろう。主人公のみならずタイラーにも、この“騒乱計画”のために戦闘員たちを犠牲にするつもりはない。そもそも爆破の件を承知している戦闘員たちが、爆破予定のビルにこのタイミングで自ら乗り込んでくるはずもない。主人公たちのいるビルは爆破の予定には入っていないのである。
 このことは、このラストシーンへとつながる同じ場面であるオープニングシーンでの、主人公の「オレたちはこの巨大な破壊を観覧するための最前列の特等席にいる」というナレーションとも符合する。タイラーは自らの計画の成就を“いい席”で見物しようと、そしてここまで苦楽を共にしてきた主人公にもそれを見せてやろうと、主人公を伴ってこのビルにやって来たのであって、死ぬためなどではない。
 にも関わらず「最後の場面で主人公は死んだ、死を選んだ」と解釈したがるのは、彼らがタイラーたちの“騒乱計画”に心底からは共感できないと感じているからに違いない。この評者氏も、「週末に殴りあうだけの集団」(一種の地下ボクシング団体)で、イカれた集まりだとはいえ一般市民の生活にとっては本質的に衛生無害な存在だったはずの“ファイト・クラブ”が、「暴走」し「反社会的行為」を繰り返すようになる、という表現でこの映画のストーリーを説明している。ケッ、豚どもが。いるいる、こういう奴。いじめられっ子がおとなしくいじめられている間は同情を示したりなんかしてみせもするが、反撃に出た途端に「どんな理由があろうと暴力に訴えるのは良くない」とか云っていじめられっ子の側を非難し始めるような連中。そもそもこのテの“良識派”は、この『ファイト・クラブ』を観ている間じゅう、タイラーが現代社会の歪みを告発するその“教説”自体には心を揺さぶられつつも、タイラーたちがさまざまな“テロ”へと踏み出していく展開に、しかもその闘争形態・組織形態が露骨にファシズム的であることに嫌悪感をもよおし、最後の最後には主人公が“改心”し、タイラーの計画がせめて志半ばで挫折するという結末を期待し続けていたに違いない。ところがタイラーの計画どおり、金融街の高層ビルが次々と崩れ落ち、主人公はその“美しい”光景を眺めながら、恋人マーラの手を握り、「オレを信じてくれ。これからはすべてが良くなる」と優しく語りかけて、映画は幕となるのである。評者氏ら“良識派”どもが、「納得いかなーい! そうだ、主人公たちは死んだんだ。偉大なるデヴィッド・フィンチャー監督は、最後に主人公たちを殺して罰しんだ」とかムリヤリ自らに云い聞かせなければならなくなるのも理解できなくはない。ざまーみろ!
 タイラーが爆破したのは主だった12のクレジット・カード会社の本部ビルであったという設定である。計画の阻止を決意した主人公は、警察に駆け込み、計画の概要を打ち明ける。もしクレジット会社の本部を片っ端から爆破し、貸借関係の記録をすべて吹き飛ばしてしまえば、「オレたちはみんな“ゼロ”に戻ることになる。全面的なカオスを創造することができる」と説明する。最後の“対決”の場面でもタイラーが云う。「とてもエキサイティングなことが今まさに起きようとしている。あと2分30秒。オレたちがこれまでに成し遂げてきたすべての労苦に思いを馳せてみろ。この窓から、オレたちは金融史の崩壊を眺めることになるんだ。経済的平等社会へと近づく一歩だ」。素晴らしいじゃないか。くだらない“良識”なんぞに振り回されず、断乎として“正義”の実現を要求する者なら誰だって、諸手を挙げてタイラーの計画を賞賛するしかないはずである。
 この映画の全編を通じてタイラーは資本主義を、とりわけ現代的な消費資本主義を糾弾し続ける。
 出会って間もない場面で、タイラーは主人公に「“デューヴェイ”って何だか知ってるか?」と問う。羽毛の掛け布団だろうと答える主人公を制して、タイラーは「ただの毛布だぜ? なんでオレたちみたいな連中が“デューヴェイとは何か”なんてことを知ってるんだ? 狩猟社会なんかでサバイバルしていく時に不可欠な知識か? 違うだろ?」とさらに問う。「じゃあそんな無意味な単語までよく知ってるオレたちって何だ?」と畳み掛けるタイラーに、主人公が「分からない。“消費者”ってこと?」と恐る恐る答えると、タイラーは我が意を得たりとばかりに「そのとおりだ。オレたちは“消費者”なんだ。ライフスタイルに対する強迫観念の産物だ。殺人、犯罪、貧困……。そういった物事はオレの関心を惹かない。オレが関心を持つのは、有名人の載った雑誌、500もチャンネルのついたテレビ、下着に縫い付けてある誰だかってデザイナーの名前、ロゲイン(育毛剤)、バイアグラ、オレストラ(代替脂肪食品)……」と正論をまくし立てる。“健康で文化的”な“新しいライフスタイル”をしじゅうテレビで提唱しまくるアメリカの“カリスマ主婦”、マーサ・スチューワートを「くたばれ!」と罵倒しながらタイラーは“説法”を続ける。グズグズ云う主人公に対して云い放つ「お前が所有しているモノの側がついにはお前を所有してしまうんだ」は名ゼリフだ。
 主人公はもともと、いろんなことをゴマカして生きてきた人間である。ナレーションでは、「怒りや落胆を抱えて帰宅した時にも、オレはその高級マンションの部屋を整理整頓して気をまぎらせてたものだ。スカンジナビア製の家具を磨き上げるとか」と回想している(別のところでも「僕もご多分に漏れず北欧家具の奴隷だった」と日本語字幕にはあるが、実際にははっきり「イケアの奴隷」と云ってたりする。今後は宇宙開発でも大企業がスポンサーになって、新しく発見された星や銀河にIBMやマイクロソフトやスターバックスの名前がつくに違いないと愚痴るシーンもあり、作り手の現代資本主義・グローバル資本主義への反感は露骨だ)。仕事は大手自動車メーカーの「リコール査定係」で、その内実は「公式を適用する仕事」でしかない。いわく、「当社製の新車で旅行して、時速60マイルでどこかを走っている。後部の差動装置がロック。車は衝突し、乗ってた全員を閉じ込めたまま炎上する。さて、我が社はリコールを開始すべきか? 市場に出回ってるその車種の台数をAとし、これにその不具合の発生確率Bを掛け、さらに示談となった場合の平均額Cを掛ける。A×B×Cで得られた数字をXとする。もしXがリコールするのに要する費用を下回れば、リコールはしない」。人命なんぞより利潤追求、資本主義の社会ではよくある話である。主人公はこうした仕事に虚しさを感じており、語り口も自嘲気味だ。
 主人公の生活は断片化している。広いアメリカのあちこちの事故現場に足を運ぶ仕事であり、空港に降り立つたびに時差を足したり引いたり……。生活リズムが狂い、慢性的な不眠症に悩まされて、現実感覚を失っている。「物事すべてが遠く感じられ、コピーのコピーのコピーのようだ」。さらに各地を飛び回る仕事では、さまざまの“1回分”のアイテムが身近にあふれている。機内サービスのコーヒーに添えられた“1回分”の砂糖とクリーム、パンに添えられた“1回分”のバター、電子レンジでチンしたオモチャみたいなカツの機内食、ホテルに備え付けの“1回分”のシャンプーとリンス、歯磨き粉、ミニ石鹸。1回のフライトで席が隣り合って、短い時間を共にするさまざまな人々も、主人公にとっては“1回分の友達”だ。他愛のないお喋りをして、やり過ごし、次々と忘れる。タイラー・ダーデンも、ちょっと強烈ではあったが、そんな“1回分の友達”の1人でしかないはずだった。
 居住地へと戻る機内でタイラーと席が隣り合い、軽口を叩き合って別れ、イケアの家具だらけの高級マンションに帰ってみると、自分の部屋の部分だけが不審な爆発で跡形もなく吹き飛ばされて、たくさんのパトカーや消防車が出動する大騒ぎになっている。後で分かるのだが、「誰でも家の中にあるごくありふれた日用品であらゆる種類の爆発物を製造することができる」とうそぶくタイラーの仕業である。行き場を失った主人公は、ふと思いついて、さきほど機内で出会い連絡先を交換したばかりのタイラーに電話をかけ、バーで落ち合って語り合う。前述の「くたばれマーサ・スチュアート!」のくだりである。ちょっと時間を潰すだけでホテルでも探して泊まろうと考えていた主人公だが、結局はその夜からタイラーの家に泊めてもらうことになる。バーを出たところで、タイラーが主人公に「1つ頼み事を聞いてほしい」と云う。「いいよ」と答えると、「殴れるだけ強くオレを殴ってほしい」。戸惑いながらも主人公はやがてタイラーを殴り、タイラーが殴り返してきて、そのまま路上での殴り合いである。一段落して、道端に座り込んで乾杯する2人。主人公は満足げな表情で、「いつかまたやろう」。以後、2人は路上での“納得づくの殴り合い”をたびたび演じ、やがて取り巻きの見物人たちが現れ、この殴り合い遊びの仲間に加わる。“ファイト・クラブ”の誕生である。
 主人公は(おそらくタイラーも)資本主義社会の“不義”や“不正”に憤っているわけではない。そんなことは、いちいち腹を立てるのもバカバカしいような、おそらくは“くだらないこと”でしかない。したがって例えば後に主人公は、「立場を換えて考えてみてください。いいですか、あなたは運輸省の役人です。誰かがこんな情報を提供してきたとします。『この会社は、衝突実験で何度も不合格になってる腕木で支えたフロント・シートや、1000マイル走ると故障するブレーキ系統、さらに爆発して乗員を生きたまま焼くような燃料注入装置を自社製の車に搭載している』。どうします?」とリコール査定課の上司を脅すが、なにも不正を糾して、何も知らずに危険な車を買わされている善良な人々を救おうというのではない。そんな“不正”などこの資本主義社会には他にもいくらでも満ちあふれているのだし、広告に踊らされてくだらないものを買う“消費者”の大群など、放っておけばよいのだ。「クビだ!」と逆上する上司に、主人公は「もっといい解決策がありますよ。今後も私を社外コンサルタントとして雇い続けてください。その給料に見合う今後の私の仕事の内容は、私の知ってるそうした諸々の事実を決して世間に口外しない、ということになるでしょう。私は出社する必要さえない。そんな仕事なら自宅でやれます」と持ちかけるのである。主人公たちは資本主義のさまざまの“不正”に怒っているのではなく、資本主義の爛熟の果てに実現した消費社会の中で、自らの生の実感が掘り崩されていくことに苛立っている。それはいわば実存的な苛立ちである。
 “ファイト・クラブ”に夜な夜な集結する仲間たちを前に、タイラーの演説はいよいよ熱を帯びていく。いわく、「お前の職業がお前なのではない。銀行にいくら預けているか、でもない。お前が乗ってる車がお前なのでもないし、お前の財布の中身がお前なのでもない。お前が着てるそのくだらないカーキ色の軍服がお前なのでもない」。いわく、「オレたちは歴史の狭間に生まれた。オレたちには生きる目的も、居場所もない。偉大な戦争もない。大恐慌もない。オレたちにとっての“大戦”は精神的な戦争だ。オレたちの生そのものが大恐慌だ。オレたちはみんな、いつの日かオレたちも億万長者や映画スターやロック・スターになれるかもしれないとテレビを通じて信じ込まされ、いい気にさせられてきた。だけどオレたちはそんなものになれやしない。その現実にオレたちはゆっくりと気づいていく。そしてオレたちは、深く深く苛立ち、腹を立てている」。いわく、「オレはこの“ファイト・クラブ”で、オレがこれまで生きてきた中で最も強く美しい男たちを見た。そいつらの中に秘められたあらゆる可能性を見た。そしてそれがただ無駄に浪費されている現実を見た。1つの世代が丸々消耗させられてるんだぞ、畜生! 接客とかさせられながら。ホワイト・カラーどもの奴隷にされながら。広告はオレたちが車や服を買うよう追い立てる。要りもしないゴミを買うために、好きでもない仕事をやらされてる」。“騒乱計画”に対する捜査を指揮する警察幹部をレストランのトイレで襲撃し、縛り上げた上でこうも云う。「お前らが追ってるのは、お前らが世話になってる連中だ。オレたちがレストランでお前らの食事を作ってる。オレたちがお前らの出すゴミを引きずって収集している。オレたちが交換手としてお前らの電話をつないでいる。オレたちがお前らのために救急車を運転している。オレたちが警備員としてお前らが眠ってる間もお前らの安全を守っている。オレたちにくだらない手出しをするな」。タイラー・ダーデン、まさに“労働者階級の英雄”である。
 “騒乱計画”も最初のうちは他愛のないイタズラのようなことから始まる。“ファイト・クラブ”に集まってくる若者たちに、タイラーが毎週、“宿題”を出すようになる。最初の“宿題”は、「まったく知らない奴にケンカを売って、負けてこい」である。「これは、そう聞こえるほど簡単なことではない」と主人公は云う。なぜなら「大多数のまあ“マトモな”人間は、どうにかしてケンカになるのだけは避けようとする」からである。“ファイト・クラブ”のメンバーたちは、通行人にホースでいきなり水をぶっかけたり、カバンをハタき落としたり、どこかの大企業のエントランスを自転車で走り回ったりして“宿題”を果たそうとするが、なかなかケンカを買ってもらうことさえできない。タイラーが“宿題”として若者たちに課す毎週のイタズラは、そのような取りすましたお上品な社会、何事も穏便に済ませようとする社会への悪意に満ちている。企業の屋外広告の文字をいくつか塗り潰して意味を変えたり、ズラリと路駐された高級車の屋根にエサをバラまいて寄ってきたハトの糞だらけにしたり、旅客機の各座席に置かれた“緊急時にとるべき行動”を説明する冊子を悲惨なイラストが載ったものにスリ換えたり……。
 ちなみに唐突だが『ファイト・クラブ』の原作小説の著者であるチャック・パラニュークは、若い頃、「不協和音の会」なる怪しげな団体のメンバーだったらしい。77年にサンフランシスコで結成された「自殺クラブ」というこれまた怪しげな団体の残党たちが86年に発足させたというが、いずれも例えば“ゴールデンゲート・ブリッジでシャンパン付きディナーを開催する”とか、“裸でサンフランシスコのケーブルカーに乗る”とか、“墓地や下水道や深夜の金融街でゲームをやる”とか、“統一教会やネオナチの集会に潜入する”とかの、ある種のイタズラ集団だったようで、近年の“フラッシュ・モブ”(ウィキペディアでの説明によれば「ネット上や口コミで呼びかけた不特定多数の人々が申し合わせて雑踏の中の歩行者として通りすがりを装って公共の場に集まり前触れなく突如としてパフォーマンスを行って周囲の関心を引きその目的を達成するとすぐに解散する行為」)の源流の1つと見なされてもいるらしい。発足の時期や地域からも容易に想像がつくように、「自殺クラブ」はやはり“68年”的な新左翼運動やヒッピー・ムーブメントの延長もしくは周辺に誕生している。単なる“素人ボクシング同好会”として始まった“ファイト・クラブ”が、次第に本格的なテロ組織へと成長していく過渡期の姿には、原作者であるパラニュークの若き日々の実体験が、かなりの程度に反映されていると考えてもよいのではなかろうか。企業の屋外広告の書き換え、あるいは(批判や、おそらくは“余計な一言”的な逆効果フレーズなどの)書き足しは、「自殺クラブ」や「不協和音の会」でも実際におこなわれていたようである。
 他愛のない水準から始まった“イタズラ”は日に日にエスカレートし、タイラーは“ファイト・クラブ”のメンバーたちを軍隊式に再編する。物語はいよいよファシズム的な様相を帯びていき、せっかくここまではタイラーの激烈な“消費資本主義”批判に快哉を叫んでいたに違いない、しかし“良識”から自由になれない軟弱なリベラル派どもが困惑しきる顔が目に浮かぶようで痛快である。
 本格的な“騒乱計画”に向けて再編された“ファイト・クラブ”は、まさに多くの無知蒙昧な知識人なんかが抱いている“ファシズム結社”のイメージそのまんまである。そこにおいてタイラーは絶対的なカリスマ的指導者であり、“計画”の全体像を知るのはタイラー1人のみで、「質問するな」が“騒乱計画”のルールである。
 “騒乱計画”のメンバーに加えてもらうために耐えなければならない“試練”もタイラーによって設定されている。志願者たちはタイラー邸の戸口に、直立不動の姿勢で立つ。タイラーは彼らにまず「帰れ」と云う。多少は手荒なことをして追い払おうともする。タイラーは主人公にこっそりと指示を与える。「もし若い志願者だったら『お前は若すぎる』と云え。年を食ってたら『年を食いすぎ』、太ってたら『太りすぎ』だ。それでも食い物も寝床もナシで3日間耐えぬいた志願者は、中に入れて訓練をほどこしてやれ」。実際のところ、まがりなりにも“党”たらんとすれば、このような何らかのハードルが必要だ。私が指導する「九州ファシスト党〈我々団〉」の「入党したければまず九州に移住せよ」というハードルもまさにこの意味で設けられている。決意の中途半端な者をファシスト党は必要としない。それでも我が「九州ファシスト党」は、入党を決意して九州に移住してきた者たちに一定期間の食住保障をしているのだから、タイラーに比べれば私はずいぶん優しい。いや、そんな甘いことだから、タダメシ食いの役立たずばかり集まって、いつまで経っても党勢が伸び悩み、あげくは野間某ごときに“サブカル”扱いされる憂き目に遭ってしまうのかもしれない。私もタイラーを見習って、もっとビシビシいかなければ。
 3日間を耐えた若者にタイラーは尋ねる。「黒いシャツ2枚、持参したか? 黒ズボン2組は? 黒いブーツと黒ソックスは? 黒のジャケットは?」。ウチもそうだが“ファシスト党”はどこでも“全身黒づくめ”と相場が決まっている。“制服”ではなく“とにかく黒いもんを自分で用意しろ”というところもウチと一緒で良い。最後にタイラーは訊く。「自分の葬式代300ドルは?」
 中に入ることを許された“入党”志願者たちは、まず頭を剃る。ここもマンマすぎてつい笑ってしまう。スキンヘッドになった若者を見て、タイラーが「宇宙に打ち上げられようとしてるサルみたいだな」とからかう。原作では“騒乱計画”を担う若者たちの集団は「スペース・モンキーズ」と呼ばれているようだ。からかわれた上で、若者たちは「より偉大な価値のために我が身を捧げろ」と云い渡される。
 邸内では石鹸の製造など、さまざまな任務に黒服の若者たちが精を出している。石鹸を高額でデパートに卸し、組織の主たる資金源としているという設定である(材料は美容整形病院のゴミ捨て場から大量に拾い集めてくる、患者たちから吸引された脂肪で、「我々は金持ちの御婦人たちに、元は彼女たち自身の肥満した尻だったものを買い戻させている」とここでも皮肉満載だ)。作業にいそしむ若者たちに、タイラーはメガホンで怒鳴り散らす。「よく聞け、ウジ虫ども! お前らは少しも特別な存在なんかじゃない。お前らは美しい雪片でも、ユニークな雪片でもない。お前らは他のあらゆるそれらとまったく同様、日に日に腐敗が進む有機物にすぎない。オレたちはこの世界が奏でるまったき雑音なんだ。オレたちは全員で積み重なって1つの堆肥を成している」。うわぁ~、“ファシスト党”だぁ~。映画から何かを学んだ気になってるだけの、しょせんは何の覚悟もないサブカル野郎どもはきっとドン引きである。しかしここでタイラーが語っていることは、まごうことなき真実だ。こうした徹底的なニヒリズムを経ずして、真のラジカリズムには到達しえない。世界はただ存在しているだけで、そこには何の意味も価値もありはしない。世界にさえ価値がないのに、その構成要素にすぎない諸個人の生に何の意味や価値がありうるだろうか? そんなものはないのだ。“個人”は一度、“死”ななければならない。
 そう、“死”もこの映画の重要なテーマである。“ニヒリズム”のニーチェ哲学と共にファシズムの大きな思想的バックボーンの1つである、ハイデガーの“死の哲学”じみた名フレーズやエピソードも、この映画の全編に横溢している。
 “ファイト・クラブ”の草創期にタイラーがバーで主人公に語った、生きていく上で少しも本質的でないのに多くの人々の関心を惹きつけている「有名人の載った雑誌、500もチャンネルのついたテレビ、下着に縫い付けてある誰だかってデザイナーの名前、ロゲイン、バイアグラ、オレストラ……」、こうした事どもについて費やされる際限のないお喋りを、ハイデガー哲学では「空談」と呼ぶ。「空談」に日々を費やすことに疑問を抱かない人々をハイデガーは「世人」と呼びニーチェは「畜群」と呼ぶわけだが、ハイデガーによれば、「世人」が「空談」にかまけることにも理由がある。そうしていなければ「不安」だからである。なぜ「不安」なのか。人間は誰でもいつか死ぬということが頭の片隅に常にあるからだ。ハイデガーは、「空談」にかまける「非本来的」な生き方から脱却するためには、むしろ「死」というものを直視しなければならないと云う。ハイデガー用語で云う「死への先駆」である。
 映画ではこのことが分かりやすく戯画的に描かれる。タイラーは機会あるごとに主人公を痛めつけ、「死」を意識させる。殴り合ってみることそれ自体がまずそうである。共同生活を始めてしばらくすると、タイラーは主人公の腕を押さえつけ、薬品で手の甲を焼く。主人公がパニックに陥ると、痛みと向き合い、「いずれ死ぬってことを恐れずに認識しろ」と云う。「おまえにこの痛みが分かるのか?」と主人公が云い返すと、タイラーは自分の手の甲の傷跡を示す。このシーンで、タイラーはニーチェばりのことも云う。「神に愛されていない可能性についてよく考えてみるべきだ。お前は神に望まれていない。たぶん彼はお前が嫌いだ。だがこれはありうる最悪の事態ではない。オレたちに神は必要ない。地獄が何だ。救済が何だ。オレたちは神の望まれない子供だ。そうだろ? すべてを失いさえすれば、すべてが自由になるんだ」
 “騒乱計画”の戦闘員たちと共に車に乗っているシーン。主人公は計画から疎外されている気がして苛立っている。運転席のタイラーが後部座席の戦闘員たちに訊く。「死ぬ前に何がしたい?」。戦闘員たちは即座にそれぞれの望みを答える。さすが“ファシスト党”の構成員、常日頃から「死」を意識して生きているようだ。主人公だけが何も答えられない。タイラーはハンドルから手を離す。「すべてを望みどおりにしようとするな。成り行きに任せろ」。当然、事故になる。横倒しになった車から命からがら這い出しての、主人公の述懐。「交通事故に遭った経験はなかった。これこそ、単なる統計的数字としてオレの報告書にまとめられる以前に、その連中が全員、味わった感覚に違いなかった」。主人公は悲惨な交通事故の現場をさんざん見る仕事に就きながら、「死」を意識しないよう遠ざけて生きてきたのだ。
 主人公はタイラーと共に深夜のコンビニへ行く。タイラーが突然、若い店員に銃を突きつけて「お前は死ぬ」と云う。財布を奪い、中から大学の修了証を見つけたタイラーは「何の勉強をした?」と尋ねる。店員は「生物学を専攻した」と答えるが、「何のために?」とさらに問われると「分からない」。「何を目指してたんだ?」とタイラーが追及を続けると、ようやく「獣医だ」という答えが返ってくる。「じゃあもっと勉強しなきゃダメだな」とタイラー。「勉強はもうたくさんだ」という店員に、「コンビニの裏でひざまづいたまま死にたいか? 免許証は預かる。お前の住所も分かった。6週間後に獣医を目指して必死にやってなかったら、今度こそ殺す」と告げて解放する。走り去る店員を見て、呆然と突っ立っていた主人公は「気分が悪い」と云うが、タイラーは「あいつにとって明日は人生で最も素晴らしい日になる。オレたちがこれまでに味わったどれより上手い朝食をあいつは食うよ」
 主人公にもともとその“気”があったことも確かである。さまざまなことをごまかしながら生きてはきたが、移動で飛行機に乗るたびに「落ちろ」と願う。生きていることの実感のない日々に身体レベルで拒絶反応を起こした結果、不眠症になっている。ラストシーンで結ばれる恋人マーラも同類だ。主人公よりむしろ“問題”のありかには自覚的でさえあり、「マーラの人生哲学は、死は常に身近にあるということだ。彼女が云うには、なのに自分がなかなか死なないことこそ悲劇らしい」と主人公は解説する。
 主人公とマーラが出会うのは、死が間近に迫った人々を対象としたセラピー会場である。不眠の辛さを訴える主人公は、主治医に「不眠症で死にはしないよ。本当の悲しみを知りたきゃガン患者のセラピーを覗いてみるといい」とたしなめられて、実際に会場を訪ねてみるのだ。「死」に直面した人々と時間を共にし、自分も余命いくばくもない人間のフリをしながら共に泣くことで、主人公は束の間の安らぎを得て、ぐっすり眠れるようになる。自分と同じく明らかにニセ患者であるマーラと出会って白けてしまうまでは。
 主人公がタイラーと出会い、“ファイト・クラブ”という真の突破口を見いだす以前に、このような“挫折”が描かれていることは重要である。私も常々主張しているとおり、真のファシズム運動は左翼的な方向での試行錯誤の挫折の末に生まれる。このテのセラピーは左翼運動の圏域で始まったものだ。多様性の肯定。どのような人生にも意味があり、あるがままの自分を肯定する。同じような境遇に置かれた人々と悩みや苦しみを打ち明け合い、同時に他人の話を決して否定しないことが参加者たちには求められる。ナンバーワンになれなくてもいい、ぼくらはみんな“世界に1つだけの花”的な自己肯定感の共有は、“68年”の新左翼運動に淵源する作風だ。70年代以降の反差別運動に少しでも真面目に参加したことのある者なら、この種のセラピーのノリには強い既視感を抱くに違いない(もちろん斯界においてそのような自己肯定を許されまた推奨されもするのは“差別される側”の人々だけである)。作中のセラピーにおいては最終的に自らの死を受け入れることが目指されており、その点でハイデガー的な“死への先駆”と似てはいるが、どこか違う。何か欺瞞がある。実際、セラピーの破綻を予感させる場面もある。骨と皮になった末期ガンの女性患者が、赤裸々な性的欲望を語り始めて進行スタッフに制止される。セラピーにはやはり取り繕われているところがあり、「死」に直面した人々(本当は誰もがそうである)のいわば実存的な飢餓感には応えられていないのだ。
 とまあ、ファシズムの何たるかを実によく描いていて、どのシーンをとっても、実際ファシストである私が観て文句の付けようのない傑作なのである。最後に一番のお気に入りのシーンを。
 “騒乱計画”の進行過程で、1人の死者が出る。例によって街にバカバカしいイタズラを仕掛けようとしていて、警官に見とがめられ発砲されたのだ。タイラー邸に死体が運ばれてくる。みなパニックに陥るが、やがて戦闘員の誰かが「とにかく死体を隠そう」と、殺された戦闘員の遺体をそれこそ“モノのように”扱い始めるのを見て、主人公が激昂する。「こいつはオレの友達で、ちゃんとボブって名前のある人間だぞ」。他の戦闘員が答えて云う。「彼は“騒乱計画”に従事していて殺されたんです。“騒乱計画”において、我々は名前など持ちません」。主人公が噛んで含めるように云い聞かせる。「いいか、オレの云うことをよく聞け。こいつは人間で、名前がある。ロバート・ポールセンだ。分かるか?」。一瞬の沈黙の後、別の戦闘員が啓示に打たれたように呟く。「分かります。死に際して初めて、“騒乱計画”のメンバーは名前を持つ。彼の名前はロバート・ポールセンだ」。いやいやいや、そういう意味じゃなくて……と戸惑う主人公を尻目に、「彼の名前はロバート・ポールセン!」の唱和が戦闘員たちの間に波のように広がっていく。何か崇高なものが描かれていながら同時に爆笑を禁じ得ない名シーンである。
 そうそうそうそう、そういうことなんだよ! とファシストの私は心から思う。共産主義の党でもそうかもしれないが、ファシズムの党でも主体は“党”である。“個人”など無だ。共産主義であれば“真理”を余すところなく体現していることになっている“党”にすべてを捧げ献身するわけだが、ファシズムの党には“真理”さえ存在しない。ファシズムの党の構成員たちが共有しているのはニヒリズムであり、そのような党に献身するのだという意志と決意のみがファシズム的熱狂の基盤である。“党”に献身することがイコール“真理”の実現への献身である共産主義と違って、ファシスト党員たちの献身は目的を持たない純粋な献身である。美しいが、存在構造上どうしても“個人”であることから誰も最終的には逃れ得ないのだから、これはいずれ破綻してしまうに違いない。しかし、“党”に献身した1人1人の存在を、“党”こそが永遠に記憶してくれるのだ。“真理”への貢献度に応じて個々の構成員の価値に等級がつけられるだろう共産主義の党とは違い、誰1人として特別ではなく、むしろ誰もがそもそも無意味な、刻一刻と腐食していく有機物でしかないと初めから見なしているがゆえに全構成員を平等に。

 ……と、ここにきて冒頭で論じた、ラストでの“画面の揺れ”は主人公の死を暗示しているのではないという話に、我ながら説得力がない気が今さらしてきた。それまでのストーリー展開から考えて、主人公たちのいるビルは爆破される予定にないはずだ、という理屈には大いに自信があるので、解釈の大枠を訂正する必要は感じないが、だからといって件の“画面の揺れ”を「至近距離で高層ビルが何棟も爆破されてるんだから、振動が伝わってくることもあるでしょうよ」というのでは安易すぎる。“揺れ”にはやはりそれなりの特別な製作意図が込められているはずじゃないか、と云われたら私にもそんな気がしてくる。
 ここまでエドワード・ノートン演じる主人公をただ「主人公」とのみ表記してきた。これは仕方のないことで、作中で主人公の名は一度も明かされないからである。主人公を「ジャック」としているストーリー紹介もネット上には散見されるが、幾人かの詳細解説者たちも気づいているとおり、「ジャック」は主人公の名前ではなく、タイラー邸に居候を決め込んだ主人公が、その建物の前の住人が置きっ放しにしていったらしい奇妙な小説を見つけて読みふける、その中に出てくる登場人物にすぎない。「ぼくはジャックの延髄です」などと登場人物のいろんな臓器が語り手になっているらしいその奇妙な小説を主人公は気に入って、その後も映画の要所要所でこれをマネて「僕はジャックの何々です」と自身の心境を語るナレーションが挟まれるので、慢然と観ていると主人公の名前が「ジャック」であるかに勘違いしてしまうだけである。実際、エンド・クレジットでもエドワード・ノートンの“役名”は「ナレーター」なのだ。
 その意図は明らかであって、主人公は誰でもない、つまり逆に誰でもありうる、現代の普遍的でありきたりな若者として設定されているのである。作中で主人公が抱えている現代社会への(怒りというより)苛立ちは、この映画を観る若い観客1人1人が日常の中で抱えているだろうそれと同質のものであることが示唆されている。主人公はラストで“立派なファシスト”として完成する、したがってこれは平凡な若者が苦しみながら自己を完成させていく“成長物語”であって、観客は主人公のその成長過程に自身を投影しうるし、またそうすることが作り手によっても期待されているとも云える。
 一方のタイラー・ダーデンはどうか? 当初は平凡な若者として描かれる主人公と違って、タイラーは登場の瞬間から非凡なカリスマ性を感じさせる、“労働者階級の英雄”である。まあ私のような“ファシスト党・党首”なんて立場の人間が世間に他にそういるわけでもあるまいし、観客の大半はタイラーには感情移入しないだろう。主人公にとってそうであるように、多くの観客にとってもタイラーは憧れの対象であり、平凡な自分を教え導いてくれる存在のように印象されることがおそらく作り手側にも意図されている。映画そのものはSFチックな夢物語だし、現実の世界にはタイラーのような存在は見いだしがたいにしても……。
 しかし! である。主人公のみならずタイラーだってこのクソッタレな現実社会のどこかに実在しているかもしれない、ということに関連して例の“画面の揺れ”はある、というのが改めて考え直してみての私の仮説である。
 作中でタイラーはいろんなアルバイトに精を出しており、その先々でさまざまなイタズラを率先して仕掛けてもいるのだが、タイラーのバイト先の1つに映画館がある。これまたいかにも現代社会的な、今ふうの“シネコン”みたいな流行りもの専門のチェーン系映画館であるように思われる。タイラーは映写技師として働いているのだが、とくに郊外の典型的な中流家庭の連中が親子連れで観に来そうなホンワカ映画のところどころに一瞬ずつ、それと分からないようにサブリミナル的にポルノ映像を紛れ込ませるというイタズラを常習的に繰り返している。
 そしてこれと同じことがこの映画自体でもおこなわれているのである。例の“画面の揺れ”とエンド・クレジットとの間に一瞬、ポルノのコマが唐突に無意味に挟まっている。DVD版ではもしかしたら劇場公開時よりも長めに挿入されているかもしれず、つまり逆に劇場公開時にはほんとに一瞬で、よほど注意していなければ気づかないようなものだったかもしれない。
 私が云いたいことはお分かりだろう。映画の最後の最後で、タイラーはこの現実世界に降り立つのである。映画館で観た場合にしか意味をなさない効果ではあるが、タイラーは、観客が今いるまさにその映画館の映写室で何くわぬ顔で働いているのかもしれないのだ。ただ、繰り返すように多くの観客がこの一瞬の“タイラー降臨”を示唆するコマに気づかないかもしれない。そこで、画面に観客の注意を一時的により強く向けさせるため、“画面が揺れる”のだ。辻褄的にも、そりゃあタイラーがフィルムを切り貼りしてイタズラしたんだから、つなぎ目のところで映像がちょっと乱れたということになりうる。
 うーむ。『ファイト・クラブ』、本当によくできているし、奥が深い。

 (信じがたいレベルで難癖をつけてくる読者が常にいるので念のために書き添えておくが、最も肝心な点のネタバレを避けてるだけだから、私が“真相”を理解しないままあれこれ書いているなどとは考えないよーに)