『幻想の崩壊』 オウムとはなんだったのか? -7ページ目

『幻想の崩壊』 オウムとはなんだったのか?

以前オウムにいましたが、そのときのことを振り返り、記録として残しておこうと思います。

川口に移って、そちらでの生活も慣れてきたある日、観念崩壊セミナーというものが開催された。これは松本死刑囚の三女であるアーチャリーが主催したもので、サマナが全体的に意識が低下し、教団を抜けるものも多くなってきたので、彼女なりに何とかしなければ、と考えて実行されたようである。

初めは師だけが集められて行われ、第一回目は本当にすごいセミナーとなったから、ぜひ参加してください、とセミナーの指導を担当していた人からメールがあった。それで私は参加を楽しみにしていた。

上九の第六サティアンに集まると、すぐにセミナーは開始された。その時参加したのは、40名くらいだったと思う。ほとんどの師がその時参加していた。

セミナーでは色々なことが行われた。最初のうちはグループになって歌を歌いながら行進するとか、男性がレオタードを着て踊らされるとか、異様ではあったが、まだ危険とまでは言えない内容だった。

セミナーは具体的なスケジュールもなく、いつ食事になり、いつ睡眠時間になるか、全くわからなかった。そういう状況にいると、人間は段々エスカレートしていく。やがてセミナーはとんでもない方向に向かい始めた。

一人を何人かで取り囲み、徹底的に罵倒するということも行われた。これは一般にある自己啓発セミナーでも行われるもので、その人の内面を強烈にゆさぶる効果がある。劇的な変化をもたらす場合もあるが、下手をするとショックで精神的に大きな乱れが生じてしまったり、最悪自殺してしまう人も出たりするような危険な手法である。これをおそらく三女は誰かから聞いて、やることにしたのではないか。これで相当傷ついた人もいたし、あまりのショックに酸素吸入しなければならない人も出たくらいであった。私もこれを行ったときは、かなりショックを受けてしまった。

また何人かは無理やり蓮華座を組まされ、足を紐でぎっちりと縛りつけることも行われた。これは以前から教団で行われていたが、セミナーでもかなり取り入れられた。私はこの時に目をつけられてしまい、蓮華座を組まされ足を縛られた。以前教団で行われたときは幸いにもその修行に参加しなかったが、今回はこれ以上にないくらいにやられた。

初めのうちはよかったのだが、段々痛みが増してきて、それ以上にエネルギーが強烈に上がりすぎ、頭がおかしくなるかと思うほどになってしまった。転げまわって痛みと圧迫感に耐えていたが、やがてそれだけではどうにもならなくなってしまった。そこで転げまわるとともに、ギャーギャー私はわめき散らした。大の大人が転げまわって叫んでいるのは、ものすごく異様な光景であり、普通なら恥ずかしいという気持ちも出てとてもできないが、その時はプライドも何もなかった。ただ地獄のような苦しみから逃れたいという気持ちしかなかった。

しばらくギャーギャー叫んでいたが、誰も反応しなかった。そこには情のかけらも存在していなかった。私は拷問を受けていたようなものだった。人がそれだけの状態になっても、誰も無反応だったのは、人間としての自然な感情が欠落していたのだと思う。自分達は地獄に至らないために修行をしているつもりだったが、そこはまさに地獄そのものだった。指導者から「逃げてどうする。地獄に堕ちてもいいのか!」とも言われたが、私は「地獄に堕ちてもいいから、ほどいてくれ!」ともう少しで言うところだった。そのときは目の前の苦しみから逃れたい気持ちで精一杯であった。

あまりの苦しさに、私は手で紐を緩めたりしていたが、それができないように縛られてしまった。それでも私は口を使って紐を緩めていたが、しまいにはさるぐつわをされてしまった。私があまりに暴れるので、コスモクリーナーという教団で作成していた空気清浄機に、縛り付けられた。これでまさに身動きも取れない状態になった。

その時の私は正常な思考もできない状態になっていた。一時的に発狂していたと言ってもいいくらいだろう。そんな中で、「私はこれくらいの苦しみにも耐えられないようでは、修行者として失格である。死んでお詫びをしよう」とまで思いつめてしまった。そして、コスモクリーナーに括り付けられていたさるぐつわを、口を動かしたり舌を使ってのどのところまで持って行き、体を座った状態でぐっと下に体重をかけて、首を吊ることを試みた。座った状態でも首を吊ることはできる。

最初は苦しかったが、やがて体がしびれていき、目の前が真っ白になっていった。そして体の力が入らなくなり、座ってもいられなくなった。異変に気づいた指導者が体の紐を解いたが、その瞬間私は床に崩れ落ちていった。

私の異変に気づいたみんなが私を取り囲んだ。それは声や雰囲気でわかるが、目を開けることはできず、何も見えなかった。そして言葉を発そうとしても、舌も回らなくなり、まともな声を出すこともできなかった。そして、肉体から意識がすーっと抜けて行きそうになった。それは苦しいものではなく、むしろ心地よいものだった。そのままにしていたら私は死んでいただろう。

抜けてしまった方が楽だと思いつつ、いやまだ死ねないと必死で意識を肉体に戻そうとした。そうこうしているうちに、今まで私が泣こうがわめこうが見向きもしなかった三女がすっ飛んできて、(見えなかったが、そういう雰囲気だった)「パヴィッタ師!起きろ!戻れ!」大声で叫び、私の頬を平手で殴り始めた。痛みは感じなかったが、意識があるときなら相当痛いだろうな、と思えるほどの強さだった。

そうこうしているうちに、私の意識は肉体に戻り、感覚も蘇ってきた。助かったと思ったが、何がなんだかわからない、錯乱した状態にしばらくいた。やがて私の意識を戻してくれた三女はすごいと思うようになった。しかし、これは三女が戻したわけではなく、自分の力で戻ってこれたのだが、その時はそう考えることはできなかった。

九死に一生を得た私は、自分の中で何かが変化したのを感じた。しかし、それも一時的な高揚感に過ぎず、セミナーが終わってしばらくすると、すっかり消えてしまった。自己啓発セミナーでも、セミナー終了直後はものすごい体験をしたように感じるけれども、終わってしまうとすぐに消えてしまい、後からあれはいったいなんだったのだろう?となってしまうケースが多いようである。観念崩壊セミナーもそうだった。指導する側も綿密に計画を練り上げて行ったのではなく、かなりいいかげんに、行き当たりばったりで行っていたようだ。

この時のセミナーでは、怪我をしたり、入院したり、死に掛ける人も何人か出てしまった。よく死人がでなかったものだと思う。私達以降のセミナーでは、寒い中ずっと外に出して水をかけたり、何日も食べさせなかったり、かと思うと滅茶苦茶に食べさせたり、といったことも行われたようである。このようなことをしていたら、肉体や精神に大きなダメージが出て当然である。人間は密閉された環境にずっといて、食事や睡眠を削ると、特殊な状態になってしまう。そうなると通常では考えられないようなことを行ったりする。カルトではよくあることである。観念崩壊セミナーは、典型的なカルトでの現象と言えるだろう。

三女は本当に真剣に、現状を打破しなければと思っていたことだろう。しかし、その思いが空回りして、とんでもない方向に行ってしまった。これは周りの責任でもある。こういうことをやるにしろ、もっと綿密な計画をたてて行うべきところを、見よう見まねのテクニックだけを取り入れても、人の心身に悪影響を与えるだけである。そういうことをきちんと提案できなかった周りの責任も大きい。

この一件で、三女に恐怖を感じたり、嫌悪したサマナも多く出てしまい、脱会者もかなり出た。そのことに三女はショックを受けてしまったそうだが、それも仕方ないことであろう。この後三女自身が、かなり乱れてしまったようだが、自業自得でもあり、三女も特別な存在などではなく、やはり一人の女性である、ということが言えると思う。

一連の事件が教団にとって、最悪の形で内面が出てしまったケースだが、観念崩壊セミナーは、それほどまでではないにしろ、やはり教団全体のどろどろした内面が露呈してしまったケースであると今は思う。そして今も教団に残っている連中は、教団に危険性はない、と主張するかもしれないが、このセミナーで自殺や他殺の一歩手前まで行ってしまったことを考えると、いつまた教団で同じようなことが起こるかもしれず、ある種の危険性を教団がいまだに秘めていることは疑いない。今後何事もなければいいと思うし、教団は以前のような事件をおこすまでの状態ではないが、何らかの事態が生じる可能性は十分にある。十分な警戒がやはり必要であると思う。
自主解散の話がなくなってから、私は当時大きくなっていた財施部へ赴くことになった。教団は事件以降大きな打撃を受け、財政的にも困難な状況になっていったので、出家者も外で働く者が出てきた。それらの統括をすることになったのである。

私はまず亀戸に行き、それから埼玉の川口に行った。亀戸の施設に財施部があったのだが、亀戸を明け渡すことになり、別の場所へ移らなければならず、川口にいくつかの住居を分散して住むことになった。外で働いていると、どうしてもみな疲弊してしまい、そういった人たちの統括をするのも楽ではなかった。他の人たちとも協力して何とかやっていたが、かなりストレスがたまってしまった。

自主解散もなくなり、教団は生き残るために必死でもあった。自分達は真理の実践者であり、そういった者達が集う場が失われてはならないと、何とか存続をかけてやっていたである。私もそういう気持ちでいた。まだ事件はやっていたことはわかっていても、松本死刑囚の幻想は残っていた。
修行班の面倒を夏から見ていて、秋になってきた頃、上九から離れて他の場所で大切なことを行うから、荷物をまとめておくように指示が来た。修行班の面倒を見るのもすっかりだれていたので、私は喜んで上九を離れる準備をした。

上九から出発するために受けた指示は、教団が自主解散をして今後に備えるが、そのための先発隊が必要で、そのための物件の確保を行ってほしい、というものだった。私はこれは大変なことになったと思い、また重要な役割を与えられたことを嬉しく思った。

選ばれたメンバーが向かったのは、千葉の行徳にあるマンションの一室だった。そこで具体的な指示を受けて、翌日から実際に行動をするという話になった。まずは住民票を移す必要があり、そのために世田谷区や中野区に行って、住民票の移動を行った。

いよいよ不動産屋に行って、具体的な物件の確保にとりかかるかと思っていたら、また新しい指示が来て、自主解散はなくなったから、各自新しい部署へ赴くようにという話になった。私は拍子抜けしたが、気を取り直して次の部署に向かうことにした。

なぜこうなったのかはっきりとしたことはわからないが、自主解散の案が出てそれを実効に移そうとしていたが、三女が「そんなことをしたら、尊師の帰ってくるところがなくなっちゃうじゃない。そんなの絶対許さない!」というようなことを言って、この話は流れたというような噂を聞いたことがある。これが真実であるかどうか確証はないが、そんなものではないかと思う。三女は父親を思う気持ちから言ったものであり、娘としては当然の発言だろうが、もしこの時点で自主解散が行われていたら、教団に関わった多くの者達の人生も変わっていたことだろう。自主解散が行われなかったことが、今となっては悔やまれる。
修行は3ヶ月ほど続いたが、その後は自分が入っていた修行班を、そのまま面倒見ることになった。かなり大勢のサマナがいたが、修行がなかなかできない者も多く、やはり指導には苦労した。そんな中で私が気になったのは、ほとんどのサマナが事件をやっていないと信じ込んでいることだった。

教団は事態が事件は冤罪である、と主張していたし、外部の情報を入れることはご法度であり、多くのサマナはそれを守っていた。都会ではなく山の方にいると、情報を入れようがないのもあるが、とにかく多くのサマナが事件は教団が関与しているとは考えていなかった。

私は教団が真実を明らかにしないのは、大本営発表のようなもので、あまりいいことではないと思っていた。しかし、事件は教団がやったと大々的に認めてしまうと、ほとんどのサマナがゆれてしまうことになり、それもまずいとも思っていた。この時にきちんと情報公開していればよかったと悔やまれるが、当時の雰囲気ではとてもそのようなことを言える状態ではなかった。

この時期、脱会してしまうある正悟師と何度か話したが、話の中で何が今問題だと思うか聞かれたので、「サマナが事件はやっていないと思い込んでおり、自分で考えることをしていないのがまずいと思います」というようなことを言ったら、「そうなんだよ。あいつらほんとに馬鹿だからなあ」といかにもその通りという口調で同意された。この正悟師は脱会して他のグループを作り、今後に備えることをしようとしていたが、結局完全に離れてしまった。松本死刑囚の虚像に気がついたのかもしれない。私はその時一緒に脱会することを勧められなかったが、この時脱会していたら、より早く松本死刑囚の幻影から逃れていた可能性もある。

ただ、私は事件はやっていない、という幻想からは早く抜け出していた。だからこそ今こうして総括を書ける状態であると言える。いまだに幻想にとらわれていたらどうなっていたかと思うとぞっとする。
松本死刑囚が逮捕されてから少しして、私はかなり疲労がたまっていたので、集中的な修行を行うことになった。いったん東京に出ることもあったが、すぐにまた富士、上九で修行を行う生活が続いた。

その時には自分の内面を見つめることができ、色々なことを考えた。今まで自分が見聞きしてきたこと、そして教団の現状がどうなっているか、更に事件は教団がやったという証言などを総合していくと、どうも事件は外部が起こした陰謀ではなく、教団が行ったのではないか?という考えが浮かんできた。また、この時期私は、ラジオのニュースを聞いたり、ポータブルテレビを持っていたので、密かにニュースやワイドショーなどを見ていました。そうすると教団の知られざる実態が少しずつわかってきた。そして、教団が事件をおこしたことは、自分の中でも確定的なものとなった。

ここまできて、私は当然深く悩んだ。これからいったい自分はどうしていけばいいのか?その答えは簡単には出なかったが、色々と検討したり、経典の記述を読んだりして、グルは自分達には理解できない境地にあり、安易にグルのことをこうだと判断してはならない。たとえグルが間違っていてもついていくくらいの帰依が必要である、だから私は教団に残り、グルの意思の実践をしていこう、と考えてしまった。無論教団から出ることも考えましたことはあったが、それよりも帰依することが大切だと思ってしまった。このとき私が教団を出ていれば、私の人生も大きく変わっていたことだろう。しかし、この時には教団に残ることを選択した。ただ、表層意識ではまだ松本死刑囚に対する信は残っていたものの、この頃から少しずつ潜在意識では崩れていたのかもしれない。そして教団に対する不信は、はっきり出てきたと思う。