セイの法則が破れる二つのパターン ――増産に必要な条件――(寄稿コラム) | 批判的頭脳

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過去の進撃の庶民への寄稿コラムである。リンクはこちら


togetterで投稿したまとめ『セイの法則(の陥穽)、生産効率化が生産増加として消化される条件』で行った議論を、補足しつつまとめようと思う。



セイの法則は、「供給それ自体が需要を生み出す」という標語だけが独り歩きしていていまいち理解されていないのだが、これを(体系的に)理解するための記事を過去に書いたことがあるので、興味がある向きは通読してくださるとありがたい。


セイの法則、ワルラスの法則、ついでにデロングの法則についてまとめておく


あっさり言えば、セイの法則は物々交換経済を前提にしており、したがってある財の超過供給というのは、その時点で必ず他の財の超過需要を意味していることになり、広範の財の超過供給というのはあり得ないということである。

これに対するケインズ及びケインジアンの簡便な反論(セイの法則が破れる一つ目のパターン)は、記事にも書いた通り、貨幣や安全資産(貯蓄用資産)を導入した場合の指摘である。
こうした貯蓄資産への需要過剰(供給不足)がある場合は、実物財、実物サービスでの広範な需要不足はあり得ることになるではないか、というのがケインジアンの基本的なアイデアである。
その帰結として、ケインジアンは『潜在貯蓄過剰』の解消を通じて、消費の最大化を実現しようとする。
(潜在貯蓄需要を満たすための貯蓄資産供給≒財政赤字の提供、或いは貯蓄よりも消費を促すような再分配政策や社会政策など)



しかし、今回は別方向からセイの法則の破れ(セイの法則が破れる二つ目のパターン)にアプローチしたい。

セイの法則、ひいては経済学(の余剰分析)では、生産効率化は、シンプルに生産量の増加として処理される。
正確には、生産効率化によって生じる生産可能フロンティアのシフトが、実際に起こる生産のシフトを描写すると考える。


しかし、単純な生産効率化が、必ず生産量の追加として消化されるというのは、現実の経済をそのまま反映した条件とは考えにくい。
現実の経済でよく起きうる現象としては、「数量据え置き」及び「応分の解雇(あるいは新規雇用の削減)」であろう。

脱市場、脱成長が齎す文化的退廃 その裏にある市場の本当の恐怖で挙げた農家と演奏家の例えを流用すると、農家の生産効率化と並行する演奏家の創出が無い場合、生産効率化は、応分の解雇と餓死を生み、経済成長どころか人口減少だけを生ずることになる。

もし、生産効率化がその時点で応分の生産量増加をもたらすということになっていれば、こういったことは起きない、乃至起きにくい。なぜなら、農家の手元にはすでに余剰生産物が山積みになっており。限界効用逓減に従って他の財やサービスに貪欲になることが予想されるからである。

ところが、実際には、生産効率化が生産量増加として処理されるとは限らない場合は、そうした効果は発生しないことになる。

厳密には、生産量据え置きで解雇が発生した場合、残った農家の一人当たり所得は伸びていることになり、消費の所得効果によって他財消費はある程度伸びることが予想される。
しかし、そうした他財消費の発生条件は、解雇された農家が他財生産にスムーズに移行できた場合に限る。そこにある程度のラグや固定的な不可能性がある場合は、既存農家は農家数据え置きの生産量減少で調整することになる。もちろん解雇農家は死ぬ。

裏を返せば、他財生産の勃興や成長がスムーズに起きていれば、全体での人口維持(と成長)が見込めることになる。

もう一つ、全体での人口維持が成功する方法としては、再分配がある。
ここでは、高度経済成長期における専業主婦の増加を挙げたい。
それまで、女性は(富岡製糸場などが想起されるように)立派な労働力として利用され続けてきた。にもかかわらず、高度経済成長期に急に専業主婦が激増するようになったのはなぜか。

これは簡単で、一人当たり所得の急激な成長が原因である。
これにより、稼得主体を男一人にし、女子供を養うことが出来る家族形態が広範に実現可能になった。これは、男から女子供への再分配と見ることが出来る。

もし、高度経済成長が専業主婦の増加として『消化』されなかった場合はどうなっていただろうか。
一つは、漏れた労働者(これは女とは限らない。なぜなら、専業主婦になれない分だけ女の労働参入も激しくなり、応分の男が蹴落とされるからである)の死亡。
もう一つは、女性の性産業等就職の増加による解消である。(これは、他財生産の勃興や成長による人口維持のメカニズムと同一のものである)


このことは、生産効率化を消化する方法としての再分配の効果を確信させる事象である。

余談だが、ここで扱った現象は、実は「余暇の所得効果」と酷似している。
余暇の所得効果とは、労働と余暇の選択において、所得がもたらす二種類の効果の一つである。
まず、賃金率(ありていに言って実質の時給)が上昇する場合、労働追加による所得上昇→消費増加が齎す効用増加が、余暇減少による効用減少を上回る場合は、労働が増加し、余暇が減少する。これを労働の代替効果と言う。
これに対し、賃金率の上昇によって、所得→消費が全体的に上昇した場合は、限界効用逓減に従って消費の追加効用は小さくなる。
もし労働減少による所得減少→消費減少が齎す効用減少が、余暇追加による効用追加を下回る場合は、労働が減少し、余暇が追加される。これを余暇の所得効果と言う。

これは一人の人間の選択として描写されているから、複数人の経済ではもう少し事情は複雑になる。
例えば、当該社会の社会的性質や、当該民族あるいは人類全般の生得的性行動の性質によって、余暇の分配が大きく偏る場合はあり得よう。実際、高度経済成長期では、余暇は主婦に大きく分配されたのである。
その理由は「上昇婚志向」とするのが一般的と思うが、それに関する議論はあまりに主題から離れすぎるので割愛する。


問題は、そうした余暇の分配においてすら、何かしらの再分配構造(婚姻形態と専業主婦の混合など)が必要とされるということである。


専業主婦発生に関する一連の議論は、産業間の分割をある程度無視してしまっているので、話を「農家と演奏家」レベルまで戻そう。


イノベーション、分配、経済成長で指摘したように、農家の生産効率化を成長として消化するには、演奏業の成長によって農家から生産物を引き出すことが必要であった。

特に、生産効率化が生産量増加に近似できないため、限界効用逓減による他財需要増を前提とは出来ず、そのため他産業による引出は極めて不安定である。そもそも、産業間の労働の代替性に限度がある場合は、成長による消化はなお難しくなる。

こうした場合、再分配を成長消化のための代替手段として利用可能なのであった。


しかし、なぜ生産効率の改善が、初期保有量の単純増加ではなく、応分の解雇と初期保有量の維持で消化され得るのだろう?

ニューケインジアンなら、価格硬直性を持ち出して、その調整としてのマネーサプライ追加(『信用創造の罠』のもとでそれが可能なのは財政政策だが)を主張するだろう。

NKの価格硬直性の説明(メニューコスト、協調の失敗)には別にケチを付ける気はないので、置いておくとしよう。

それとはまた別個で、「生産効率化が保有量増加に直結しない=技術的失業として解消される理由」については考えてみたい。

当たり前のことだが、現代経済は、一人一人の限界生産性を簡単に計算できるような単純な経済では全くなくなっている。
生産という業態は、多様な業種の複雑な相互関係から成立し、誰がどれだけの生産性を発揮したかなど、本当のところでは誰にもわからない。

その中では、雇用も、賃金も、極めて便宜的に決定するだろう。
つまり、「ある就業候補者の限界生産性はいくらだから、これだけの賃金であればペイする」というような計算の結果として雇用が提供されえない。
むしろ、予想される生産量(需要量)から逆算されるのである。


そして、高度に複雑化した経済の中では、その中でも予想の安定化を目指すために、極めて計画的な契約と生産が志されるだろう。
そこでは、価格も数量も硬直的な生産計画が成立し、そこから必要な労働力が逆算されるようになる。
ここでは技術的失業が容易に起こる。


この一連の考えは、極めて非主流派的なもので、限界生産性=賃金というシンプルな仮定を無邪気に信じるラクチンな経済学からは大きく乖離している。
しかし、私には比較的現実的な想定とも思えるである。