サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディ | SILENCE

SILENCE

探求の終わりについて書き留めていけたらいいです。
もう苦しみを終わりにしたい、本当に目覚めたいと思っている方に読んでほしいです。

私の非二元への探求の実践の記録です。
時間のある方は最初から日付順に読むのをお勧めします。


サハジャ ・・・        自然な

ニルヴィカルパ  ・・・   違いのない、区別のない

サマーディ  ・・・      真我への没入



私が、重要だと思った箇所を、ピックアップします。


マハルシが、すべて説明してくれています。



「あるがままに」 ラマナ・マハルシ

第14章   サマーディ


p272


質問者:

サマーディとは何でしょうか?


マハルシ:

静かな心によって存在-意識を絶えず体験している状態、それこそがサマーディである。

至高の真我の成就によって得られた静かな心、それこそが神の実在である。



p278


質問者:

サマーディは何の役に立つのでしょうか?

それが起こるとき、想念は存在しつづけるのでしょうか?


マハルシ:

ただサマーディだけが真理を顕にすることができる。

想念は真理の上にヴェールを覆いかぶせる。

そのため、サマーディ以外に真理を実現する術はない。

サマーディのなかには(私は在る)という感覚だけがあり、想念はない。

「私は在る」という体験は「静かに在る」ことである。



p279


質問者:

外的と内的なサマーディの違いは何でしょうか?


マハルシ:

外的サマーディとは世界を目撃している間も、内面ではそれに反応することなく実在をとらえていることだ。

そこには波のない海の静寂がある。

内的サマーディは身体意識を失った状態である。


質問者:

私の心はそのような状態に一瞬さえも入ったことがありません。


マハルシ:

「私は心と世界という現象を超越した真我である」という強烈な確信が必要である。



p281


マハルシ:

中略


ニルヴィカルパとは努力を要しない無形のチット(意識)である。

いったいどこに恐れることがあろうか?

自分自身として在ることに何の神秘があるというのだろうか?

過去に長い修練を経て、心が成熟した何人かの人たちにとっては、ニルヴィカルパはあたかも洪水のように突然訪れる。

だが他の者たちにとっては、ゆっくり時間をかけて、障害である想念に打ち勝っていくという地道な修練をつづけ、「私-私」という純粋な覚醒のスクリーンを徐々に露わにしていくことでニルヴィカルパは起こる。

修練をさらに進めていくことでスクリーンは永久的に露わにされる。

これが真我の実現、ムクテイ、サハジャ・サマーディ、自然な努力を要せぬ状態である。

単なる外界の区別(ヴィカルパ)を知覚しないことがニルヴィカルパの真の本姓ではない。

ただ、心が死に絶えた、区別が起こることのない状態だけが真のニルヴィカルパであると知りなさい。


質問者:

心が真我のなかに沈みつつあるとき、しばしば私は恐怖を感じるのです。


マハルシ:

サマーディに入ろうとするときに起こる恐怖と身体の震えは、わずかな自我意識がいまだに残っているためである。

だが、自我が何の形跡もなく完全に死に絶えるとき、人はただ至福だけが広がる純粋な意識の空間にとどまる。

そして震えも消え去るのである。


質問者:

サマーディは至福に満ちた恍惚状態なのでしょうか?


マハルシ:

サマーディそのもののなかにはただ完全な平和だけがある。

サマーディが終わろうとするとき、心は息を吹きかえす。

そしてサマーディのなかの平和を思い出したときに、至福が訪れるのである。

帰依や献身のなかでは至福がはじめに現れる。

それは歓喜のの涙、毛が逆立った状態、声が上ずった状態として表れる。

そしてついに自我が死に絶え、サハジャが起こるときには、これらの兆候も恍惚状態も消え去るのである。