今年4月からNHKテレビ番組、
「ブラタモリ」
が復活する。東京都心の今昔を歩くだけでなく地方も訪ねるという。そこで、都心以外の東京を探索する。23区以外の東京都、いわゆる「東京市部」は昔ながらの表現では「三多摩」である。下の図の緑で示した「西多摩郡」、赤で示した「北多摩郡」、黄色で示した「南多摩郡」の3郡をこのように総称する。「三多摩」の表現は23区を除く東京という意味で「東京市部」よりも正確な表現である。なお、下の古地図に示されているのは廃藩置県における「神奈川県(武蔵国+相模国)」であり、三多摩と現在の神奈川県(相模国)を含む。この地域の市外局番が共通して042なのは同じ「神奈川県」であったことの名残である。


2.電話番号042の地域


現在の市町村図を示すと、北多摩郡(赤)に多くの市が制定されていることが分かる。武蔵野市、調布市、府中市、国分寺市、国立市などなど。さて、ここで問題。古地図における北多摩郡(上図)と現在の市町村で表した北多摩郡(下図)では微妙に市境が違っている。どこか分かるだろうか? 答は記事の最後に示す。


1.三多摩と東京市2



三多摩を貫く街道は南の「甲州街道」と北の「青梅街道」である。今回は甲州街道をブラタモリしてみよう。甲州街道は日本橋を出発して布田(調布)を通り、府中、日野と抜けて、最後は甲州諏訪にまで通じる。


3.甲州街道沿いを旅する


「高井戸」付近では甲州街道の上を首都高速新宿線(やがて中央自動車道になる)が走る。甲州街道自身も6車線の広い道路である。


4.甲州街道下高井戸付近


しかし少しわきにそれると、玉川上水の名残があったりする(甲州街道は世田谷区と杉並区の境である)。下高井戸の隣の桜上水も玉川上水のことである。


5.玉川上水(桜上水近く)世田谷区と杉並区の境



甲州街道をずっと下って「調布(布田)」に来る頃には道幅はかなりせまくなる。自転車JKの太ももがまぶしいが、先を急ごう。


6.甲州街道は案外狭い


ここ布田五宿(国領、下布田、上布田、下石原、上石原)の中心は布多天神社である。いや、神社よりも遊郭(五宿女郎)の方が賑わっていたかも知れない。


7.布田天神


天神信仰と言えば、臥した大きな牛である。ローソクと言えば、カメヤマローソクである。


8.布田神社の境内


境内の一角には、「橘屋一家」の石碑がある。街道筋ではよくあることだが、昔は任侠が幅を利かせていた。ましてや遊郭の栄えた土地柄である。コワいお兄さんなしでは成り立たなかっただろう。また、調布の隣の「府中」に有名な刑務所があるのも理解できる。


9.任侠橘屋一家の碑文



そんな府中のすぐ北隣には「国立(くにたち)」がある。国分寺と立川の間だから国立。元は国分寺村の雑木林だったが、昭和初期に学園都市構想とともに開発され、90年経った今、高級住宅街になっている。


10.国立の邸宅1


これでもかというほどの邸宅を見せつけられると、ここに住む人は人種が違うと感じないわけにはいかない。


11.国立の邸宅2



通りを歩いている小学生はそのまま大きくなって、庶民のことは何も分からず生きて行くのであろう。思わず、呪いの言葉をかけたくなる。昔は任侠町だぜ、ブルシット、ファッキュー、ボーイズ、アンド、ガールズ!


12.国立の邸宅3


そうこうするうちにブラタモリを終える時が来た。開かずの踏切は最近、高架化によって解消されたが、ここ「立川」では古くから街道が地下にもぐることにより鉄道との融通を図っている。


13.とっぷり日が暮れる



さて、冒頭の問題の答。下に三多摩と区の地図を重ねてみた。北多摩郡は千歳村と砧村(の一部)を含み、これらを除く昔の世田谷区はずっと小さかった。千歳村は現在の千歳烏山、砧は東宝スタジオのある祖師谷砧である。両村は現在、世田谷区として大きな顔をしている。国立にもまして高級住宅街の成城学園だの、二子玉川だのと威張っていても、元は東村山と同じ北多摩郡なのである。どうだ参ったか、サノバビッチ、ベイビー! ファッキンアソール、プシーキャット!


15.世田谷の西半分は北多摩郡だった3


16.東京駅から10マイル


最後は取り乱してしまったが、
「甲州街道をゆく」
を終える。次は「青梅街道をゆく」をお届けしたい(いつか)。



あらすじキーワード: ブラタモリ 三多摩の由来 北多摩郡・南多摩郡・西多摩郡 甲州街道と青梅街道 有名な高井戸ジャンクション 桜上水の由来は玉川上水の突堤に咲く桜から 五宿通いと赤線 任侠と府中刑務所 国立高級邸宅街の国立・成城学園・二子玉川