前回の記事 「失楽園 (悪の始まり)」 からつながる内容となっています

 『善悪がある』が永遠不変の真理ならば、「善悪がない」世界は創造すらもできない。二極分裂が元だと言うならば、善悪がない世界が産まれることはない。それが真理ならば、永遠に戦争が続く世界が真理となるから、世界平和や自由は絶対に実現しない。

 しかし、平和や自由や天国が想像できるならば、『善悪がある』は真理ではないことを意味し、戦争をしているならば、それは、自らだけの天国を実現しようとしている手前勝手な行動だということになる。


 悪神生んで悪心映し、悪を使って悪を祓う、最後の最後の舞台では、善も悪も改心させる、嬉し楽しに導く神芝居。それがこの方の構えた「ミロクを創る仕組み」にござるのぞ。

 始めからこの方の言う通りにすれば何の問題もなくミロクへ行けたのでござるぞ。大掃除が必要になったのは、そなたらが「身欲」「保身」に囚われたのが原因であるぞ。神の掟を外したら自ら滅ぶのが神成る身魂の掟であるぞ。そなた自ら囚われを解くことはできないのであるぞ、今の今まで、真実に気づかなかったのがその証であるぞ。ほおっておいたら魂が滅びるから、そなたら人間に成った身魂を最後の最後のこの時まで導くために、調和を乱す者には苦を与えて気づかせ、調和を創る者にはお陰を与えて気づかせる、「情けと花の仕組み」にすべてを託し、すべての者が「至然」に「ミロク」へ行けるように仕組んでいたのであるぞ。


 善悪の戦いができるのは、悪が許されているからであって、許されている悪を滅ぼす戦いをしているという自己矛盾を解消しなければ、戦争は止まらない。鏡の中の逆さまの世界では、本当の世界を鏡の世界だと思い込む。鏡に映った自分は闇の中のグロテスクな悪魔に見えるから、鏡を無視して、戦争を続ける。鏡の世界にいる天使は悪魔であり、悪魔が天使である。

 真釣りと魔釣りは裏表であり、元は一つであるが、全く正反対のハタラキをする。ハタラキには善悪はなく、魔釣りの快欲に囚われた心に曇りがあるから、やること為すこと善悪にわかれてしまうだけである。善悪に分ける目をもって世を進めていけばいくほど真釣りには戻れず自滅する。悪のハタラキが現れて、自らが持っている善悪の目に気づけるのであるから、悪のハタラキをする者は自らにとって恩恵である。

 真釣りには悪は影さえなく、情けがあるだけである。自らが真釣りを外さなければ悪も苦も存在せず、悪や苦があるならば、それは、自らが真釣りを外している証拠である。

 もし、悪が無ければ、あなたは魔釣りに生きていることに気づかずに、自分は善だと思ったまま、真釣り外して滅ぶことになる。悪の正体は、自らの魔釣り(真釣り外し、神法違反、滅びの道にいる事実)に気づかせてくれるための鏡であり、滅びを止めてくれる有り難いものである。

 この世にある「悪にみえる出来事(苦に感じるものは)」は、あなたの神法違反の現れである。「悪」は、本当の善に気づかすために存在を許されたものである。神法違反である本当の悪に悪であることを気づかせるための大神の情けであり、その悪を裁くならば、真釣り外しの責任を放棄し、天地自然の掟破りの清算の邪魔をしているあなたは、掟破りの自覚無き反逆者、無法者として、自然淘汰により消滅することになる。

 アヤマ知を使って逆恨みするならば、それは、自ら産んだ不快を他人に転嫁することを意味し、自らの神法違反を認めてないことになる。従って、自らを善だと思ったまま滅んでも、誰にも文句は言えない。滅んだら文句は言えないから、文句を言っているあなたは、幻のような存在である。実体のある真釣りの存在から見れば、あなたは、始めから存在していないことになる。

 今の世は鏡の中の世界であるから、ミロクから見れば、悪と悪がお互いに鏡に向かって戦いを挑んでいることになる。鏡に映った自分に吠えている犬と同じである。鏡に映った姿が自分だと気づかなければ、吠えるのはやめない。鏡の館に居続ければ、鏡の迷路の中を永遠に彷徨うことになる。カメラを接続したテレビを、そのカメラで映したら、テレビの中に永遠にテレビの映像が映り続ける。カメラを操作している自分が本当の自分であり、テレビから目を離したところが、本当の自分がいる場所である。それは鏡の館の外でもある。幻の鏡の館は入館者もろとも消滅する時が来る。それまでにその館から脱出しなければ、館と共に消滅する。鏡は「彼我身」であり、自分の姿である。鏡の館を出る方法は、内の鏡に従うことである。ガイドは自らの中にある。真コトが出口へのガイドである。


私たちは許され、そして生かされている存在

あなたが忌み嫌う「悪」もまた、同じように許され存在している

「悪」だけが望まれもしないのに、何処からともなく勝手に生まれてきたと信じたいのですか?


私たちには完全な自由が許されている、このことの意味、そして重さ

これは一度の人生に限った話ではない

魂の、永遠の命の行方を、自らの手に握っているということ


間違ったことを信じる事も自由

「幻の鏡の館」、これは例えではあるが、ただの例え話ではない

鏡に映し出された虚像の方を、本体であると思い込むのも自由

だが、期間限定のルールの中のかりそめの自分を

本当の自分だと信じ込むことの恐ろしさ


時間切れとともに、電源を落とされるコンピュータの中のバーチャルリアリティ

その中に生きる自分は消え去り、二度と戻ることはない

そのゲームを現実だと信じる者にとっては、世界の消滅

自分という存在はそれに巻き込まれ、ともに消え失せる


これは裁きではなく、審判でもない

 神が人を裁くのではない

ゲームを抜けるという選択を、放棄する自由もまた認められているということ

 自滅の選択

完全な自由の約束=全ての責任が自分自身にある


 そんな冷たい!酷いじゃないか!

違う、そうではない

救済のための仕組み、猶予期間の延長、そして警告

何度も何度も繰り返し与えられてきた

だが、それらは軽んじられ、無視された


世界各地に残る伝承によれば、かつて世界は滅んだという

そして今の世界は5番目だとも、7番目だとも言われている

だが共通して伝えていることは、今回の世界は最後だということ


この最後の“世界”という“ゲーム”をプレイ中のあなたは

何を信じ、どんな選択をしますか?

“ゲーム”を唯一の“現実”と信じ、運命をともにするのも自由

プレイを止めて、本当の“現実”に目を向けるのも自由

こんな与太話を信じられるかと、無視し忘れるのも自由

面白い話だけど、どっかの映画のパクリじゃんと笑い飛ばすのも自由

 そなたらがやってきたゲームをそのまま続ければ滅びるだけでござるのぞ。そなたらの今までの「常識」や「思考」ではもう何も元にもどせないのであるぞ。「良くしよう」という思考そのものがアベコベであるのぞ。すべてはひとつであるのに、「善」も「悪」もないのに、悪を批判し、悪を避け、善だけを創ろうとしていたのがそなたらのゲームであるぞ。そなたらが元に戻そうとしているのは、そなたらの考えた「善」を形にしようとしているだけのことであるぞ。


あなた自身のストーリーの結末は、選択の自由...

あなたの手に委ねられているのだから