前の記事の続きである。そのマクラで書いたように、三多摩(東京市部)ほど外部の人間に無視され、また内部の人間同士で無視し合っている土地はない。

00.三多摩市境

三多摩の住民は東京23区の人間に、
「小金井? へー、中野の向こうにも人間が住んでたんだ。」
とあからさまに人種が違うと言われる。
「東村山? 頑張って一戸建てを購入されたんですね。」
とホメたフリをして上から目線でバカにされる。
「あきる野? それはそれは野原や原野がお好きなようで。」
と野生児か土着民扱いされる。

また東京以外の地方人には、
「昭島? 伊豆大島以外の東京の島には詳しくないもので。」
「羽村? 何だか虫がたくさん飛んでいそうで行きたくないなぁ。」
「稲城? 宮城じゃなくて? 茨城はいばら『き』だから違うかぁ。」
とガン無視イジメや云われなき差別を受けることになる。

それでいて三多摩の住民は三多摩の他の市のことをほとんど知らない。東久留米の人間の目は都心を向いていて、隣の西東京に注意を払わない。仕事も、ちょっとした買い物も、美術館めぐりといった趣味も、新宿などの23区に出て行く。日常の食料品などの買い物は三多摩の自分の市内で事足りるから隣町に行く用事は何もない。



三多摩の住民が都心指向をもち、互いに注意を払わなくなったのは、もちろん戦後の高度経済成長期に三多摩が都心のベッドタウン化したためである。昔はこうではなかった(と、遠い目をして語る)。北多摩郡烏山に住む知り合い、いや現在の世田谷区千歳烏山の住民の何代か前の世代は、同じ北多摩郡箱根ヶ崎、いや現在の瑞穂町箱根ヶ崎から嫁を迎えたと言う。当時は馬で花嫁が35kmの道のりを10時間かけてエスコートされたのだろう。昔は三多摩内で深い人的交流があった(日常的でないにせよ)。

現在、箱根ヶ崎から千歳烏山に電車で行くには4つの路線を巧みに乗り継がなければならない。
・箱根ヶ崎-(JR八高線)→拝島-(JR青梅線)→立川-(JR南武線)→分倍河原-(京王線)→千歳烏山
所要時間1時間あまり、交通費519円ではあるが。

三多摩の各市から都心に向かう交通の便は乗り換えが少なく便利だが、三多摩の少し離れた市と市をつなぐ交通の便はおそろしく不便である。たとえば、ほんの15km離れた東大和市から稲城へ行くには、三多摩からいったん都心の高田馬場・新宿に出て再び三多摩に戻るという笑ってしまうようなブーメラン作戦が取られる。
・東大和市-(西武拝島線)→小平-(西武新宿線)→高田馬場-(JR山手線)→新宿-(京王線)→調布-(京王相模原線)→稲城
所要時間1時間半、交通費761円で、わざわざ50kmもの道のりを行くことになる。

もっとも途中で駅と駅の間を徒歩で移動すればそんなバカなブーメラン作戦は解消するが、乗り換えは多くなる。
・東大和市-(西武拝島線)→玉川上水-(多摩都市モノレール)→立川北-(徒歩)→立川-(JR南武線)→稲田堤-(徒歩)→京王稲田堤-(京王相模原線)→稲城
これだと所要時間1時間あまり、交通費754円で、20kmの道のりである。新宿に出る代わりにちょっとくらい歩けということである。


001.三多摩の路線図

三多摩と23区をつなぐ東西交通機関は(上・北から数えて)西武各線、JR中央線、京王各線、小田急各線と豊富に用意されている。これに対して、三多摩どうしをつなぐ南北交通機関はさほど儲からないから私鉄が発達していない。(左・西から数えて)JR八高線+横浜線、JR青梅・五日市線+南武線、多摩都市モノレール(ほぼ都営)、西武国分寺線、JR武蔵野線となっており、便利な私鉄は西武が唯一の救いである。こうして、三多摩の住民は互いに他の市のことを知らずに生きている。

結果として生まれたのは「三多摩は他からも己からも顧みられない文化的未開の地である」という「三多摩暗黒大陸説」である。暗黒大陸の探検に適しているのは自転車であるという理由で、私の今回の自転車ブラタモリが始まった。




全行程の詳細な地図を示す。前の記事では左上の赤丸で示した武蔵村山からスタートし、青梅街道などを東に向かって東大和、東村山に入り、そこから府中街道を南下して地図右中央赤丸の青梅街道との交差点までという行程前半を示した。


01.自転車の経路3

この記事では行程後半としてこの交差点からさらに府中街道を南進して国分寺に入り、その後、五日市街道などを通って西の立川に向かい、最後に北上することでスタート地点の武蔵村山に戻る。



街道交差点にある自宅で少し休憩しw、後半戦スタート!
行ってきまーす♪


069.邸宅あり


青梅街道東行きを右折して府中街道を南下する。

070.府中街道を行く


ブリヂストン前で4車線あった府中街道は、同じ小平でもここでは片道1車線の田舎道の姿に戻っている。看板には「元気です! 小平の農業」とある。あたりには畑が広がり、前方には森が見える。

071.小平の農業




畑と森の風景から突如として瀟洒な洋館が現れる。

072.農地にある大学


門柱には「津田塾大学」とある。そうかぁ、名前は全国区の津田塾ってこんな三多摩の片田舎にあったんだ。

073.津田塾大学と言う


津田塾の女の子がターゲットとする男子は同じ三多摩で、文系は一橋大、理系は東工大と聞くけれど、なんだ芋ねぇちゃんじゃないか。同じ近隣国立大の東京農工大の男子を、
「のうこう大? 農耕民族に用はないってーのっ!」
って冷たくあしらうらしいけど、君たちの方がドン百姓だよー。
「君たち、ゲスの極み乙女! コポー!」(by 東京農工大卒、川谷絵▼&ちゃんま●)。玉川上水の水で顔洗って出直しなさい。芋を洗ってるなんて言わないからさ。


075.玉川上水の流れ

おっと、津田塾大生が芋っ子ウメちゃんであると決めつけるのは拙速の極みである。私が津田塾大を訪れたGWのとある日は当然のように大学は閉まっており、私の滞在時間10分の間に瀟洒な洋館から門扉をくぐり抜けたのはたったの2人だった。門の外にはナンパ狙いの男子大学生と思しき3人のチャラ男がおり、2人の津田塾大生に対して「あっ、芋。パス!」と気持ちは分かるが容赦ない判決を下していた。したがって、私にとって「津田塾大生=芋ねえちゃん」説はサンプル数たったの2から導いたものである。私としては2,710名の在学生のうち、2,708名が「テニサー・アンチポテト」に所属することを夢見る次第である。だとしたら、「津田塾と合コンやりてー!」



とか言ってると、西に向かう五日市街道をいつの間にか通り過ぎた。交通案内板によると、ここは右折すれば国立という国分寺にどっぷり入ってしまったことが分かる。なーに、国分寺はまだまだ続く。JR中央線を越えて初めて国立、それまでは国分寺なのだ。


078.右折すれば国立


五日市街道に復帰すべく、「なんとなくこっちかなー」的感覚を大切にして脇道を行く。私の頭の中にはカーナビはないが、磁石が入っているから地図を見なくても東西南北は分かる。おいおい、お前は鳩かっ! いや単に太陽を見て走る方角を北西に決めただけなんだけど。あたりはビニールハウス畑が広がっている。

089.国分寺の農地


自動車が通る道からふと脇道を見ると、完全な原生林である。通学している中学生が見えるが、よくまあこんな道を通るもんだ。夜は怖いぞ。鼻をつままれても分からない漆黒の闇に包まれるぞ。OLさん、こんなとこ通っちゃダメだよ。林に連れ込まれて何されるか分かったもんじゃない。

083.国分寺の旧道


国分寺の田舎道の道端にシャトレーゼ発見。工場直売のリーズナブルなケーキ屋さんである。ショートケーキが1個500円するこのご時世に、「いちごとブルーベリー ~ヨーグルト風味~」216円って安すぎだろ。「8種フルーツのショートケーキ」345円は嬉し涙がちょちょ切れる。5月限定の贅沢ケーキ「メロンと苺のプレミアムショートケーキ」399円って思わず買い占めたくなるぞ。コンビニやスーパーのショートケーキ+αの代金でそこそこ美味しいケーキが買えるのがシャトレーゼである。

088.シャトレーゼ




そうこうするうちになんとなーく五日市街道に復帰することができた。「てまー、かけやがって。」とかひとりごちながらコイン精米所の前で休憩。

093.逆光の五日市街道精米所


ここまで自分の姿を見せなかったが、これが私が乗ってるマウンテンバイクで、リュックと炭酸水をわざとらしく置いて記念撮影。米侍とはラッピング自販機でペットボトルに入った米を売っている?

095.休憩中の自転車


と思って自販機の正面に回ると、米の宣伝はあるけど、売ってるのはただの各種ドリンク。オール100円! ASEEDとか言う自販機設置・メンテナンス会社の製品である。安物買いのサンガリア・コーヒーのドリンクでさえない。オール100円はオールまがい物、いやその、オール類似品、いや、オールジェネリックドリンクなのだった。

096.米侍の自販機




米侍の自販機の向かいは曹洞宗瑞雲山妙法寺。元々は小平にあった寺(創建年は不詳)が明治42年(1909年)にここ国分寺に移って来たとのこと。移転してからでも100年余りの歴史がある。広い敷地に霊園(墓石)が見える。
「たくさん死んだはるわぁ。」


099.向かいは大きなお寺

こういうのを見るとつい計算してしまう。人口12万の国分寺において妙法寺のある北町の人口は3,500人(世帯数1,500)。国分寺全体で年間死者数は800人だから、北町では1年に3,500/120,000×800=23人(ひと月に2人)が亡くなっている。仮に北町の全世帯が妙法寺の檀家としてこの寺で葬式をあげるなら、過去100年間にこの墓地に葬られたのは2,300人。
「2,000人以上、死んだはるわぁ。」

おっと昔の国分寺は12万人もいなかったからこれは間違い。50年前は人口6万人だから北町では年間12人死亡、60年前は人口3万人で北町では年間6人死亡、70年前は人口1.5万人で北町では年間3人死亡、80年前は人口7,500人で北町では年間1.5人死亡(1人と半分ってなんだよw)、90~100年前は大雑把に言って北町では年間1人死亡。逆に100年前から死者数の変化をまとめると、100年前から10年ごとに、1人(100年前)ー1人ー1.5人ー3人ー6人ー12人(50年前)ー24人(現在)。10年の区分ごとに死者数を掛け算で求める(求積する)いわゆる区分求積を行う。言い換えると死者数を「積分」する。そうすると合計の死者数は1,080人と求められる。現在の人口が100年前から続いてた場合の死者数2,300人よりずっと少ないが、こんなもんだろう。
「1,000人ほどの人、死んだはるわぁ。」

んーっと、これも正しくないだろうな。国分寺市の人口動態において、80年前の7,500人から50年前の6万人、現在の12万人と爆発的に人口が増えたのは主に国分寺駅近の住宅地であって旧街道近辺ではないだろう。つまり北町の現在の人口3,500人は50年前に半分の1,750人かも知れないが、80年前は16分の1(=7,500/120,000)の220人ではなかったはず。北町にはずっと昔から1,000人程度の村人が居着いていたとすると、毎年そこそこの数の村人が亡くなっていたことになる。現在23人が亡くなるならば昔は3分の1程度(=1,000/3,500)の8人もの人が毎年墓石の下に消えて行ったと思われる。そうすると1,080人よりも多く、2,300人より少ない数の人が葬られていることになる。
「1,000人から2,000人くらいの人、死んだはるわぁ。」
うーん、理論を厳密化すると結論は精緻になる代わりに締まらないなぁ。




しょうもない計算はこれくらいにして休憩終わり。やっと五日市街道に復帰したのだから先を急ごう。例によって街道沿いには元地主の邸宅が散見される。

101.元地主の家


街道沿いに見られるのは旧家とめし屋と相場が決まっている。五日市街道は新宿から高円寺、吉祥寺、小金井を通ってここ国分寺に来ており、さらに立川から福生、五日市(あきる野)へと抜けていく。そういった街道を歩いていると昔の人は腹が減っただろう。今でもそういったドライブをしていると腹が減るのだからよく分かる。

そういうわけで五日市街道沿いには旅人にご飯を提供する店が見られる。たとえばここはココ、いやここはココ壱番屋のカレー屋さん。先ほど休憩した自販機の手前には五日市街道沿いに吉野家があった。逆に西に進んで立川に入ると定食の大戸屋、釜あげスパゲッティーの洋麺屋五右衛門がある。みな旅人の腹を炭水化物で手っ取り早くいっぱいにするいわゆるガテン系めし屋である。


103.五日市街道沿いのココイチ


五日市街道と立川通りの交差点にはサンマルクのパン屋さんがある。食べ放題でやっぱりここもガテン系である。立川通りは昭和59年(1984年)に作られた都道16号立川所沢線のことで、立川市の中心地から所沢とは言うものの東大和市の青梅街道まで両市をつなぐ道路である。ほんの30年あまり前には存在しなかったのだから「新しい街道」とも思えるし、できて30年も経つので昔から存在する「古い新道」とも思える。新しいと感じるのは中高老年だろうし、古いと感じるのは青少年だろう。

109.パンのサンマルク


立川と東大和をつなぐ街道なのだからやっぱりガテン系めし屋がある。広い駐車場にトラックを停めて運転手さんが旺盛な食欲を満たす。

111.立川通り沿いのガテン系食堂




食欲が満たされた運転手さんが(運転手さんに限らないが)次に必要とするのはこういうお店。

113.女の子の絵が描かれたDVDショップ


看板にはアニメ風の女の子が描かれているが、よく分からないので近づいてみよう。

114.女の子の絵が描かれたDVDショップ


少しずつ分かって来たぞ。店先に張り出されたポスターにはグラビアクイーンとある。ふーん、グラビアねぇ。ピッチピチの女の子のあられもない姿が見えるような気がするのだが分からない。

115.女の子の絵が描かれたDVDショップ


グラビア(と仮に信じておこう)を見れるブルーレイディスクとは何を意味するのかは、子供じゃないんだから分かる。ア●ルトビデオでしょ。けれどTENGAって何? それにしても街道沿いのお店は分かりやすい。食欲を満たしたあとは性欲である(あー、やっぱりTENGAって分かってんがー)。

116.ブルーレイは知ってるがテンガは知らない


私はと言えば知識欲を満たすのがメインである(エラそうに!)。立川通りと交わる道を見ると、江ノ島道とある。江ノ島ってあの湘南の江ノ島? ここは湘南からとんでもなく遠い立川である。なのに江ノ島、なぜに江ノ島。で、調べてみると立川江ノ島道の江ノ島は、確かに湘南藤沢の江ノ島、サザンオールスターズの江ノ島なのである。昔、立川の江ノ島道を歩いて行くとやがて湘南の江ノ島に通じたと言う。へぇー。思わず歌ってしまう。
「えのしーまーが みーえーて こなーい おーれーの いーえーは とーおーいー♪」(勝手にシンドバッド・改)




さて、私は食欲も性欲も満たさず、淡々と五日市街道を西に向かって走ろう。と思ったら五日市街道せますぎ。自転車は危ないので五日市街道と平行に走るバイパスすずかけ通りを走ることにする。


204.立川から昭島へ

写真の左手には立川の広大な昭和記念公園が隣接している。砂川口という公園入口があり、混雑時にはこちらから入園すると駐車場が空いているという裏技が使えるので覚えておこう。なお、砂川とは立川市の北半分にあたる旧砂川村のことで、南の立川村と北の砂川村が合併して立川市になったのである。えっ、思い出した? そう、ここは昨年の安保法制時に注目された砂川闘争の砂川である。

すずかけ通りの行き止まりまで来たので右折して北上。新道である多摩大橋通りを行くとほどなく五日市街道と交わる。


207.五日市街道から武蔵村山へ


その交差点は天王橋。橋の下を玉川上水が流れる。この水はずっと東まで流れて芋ねえちゃん、いやその、津田塾大の女子大生の顔を洗っているのだなぁと思うと感慨深い。

208.玉川上水の流れ


多摩大橋通りの先に西武拝島線の高架が見える。西武拝島線は府中街道を八坂神社の近くを走った時に高架下を通ったあの西武拝島線と同じである。線路は続くーよっ、砂川から小平まで♪

210.西武拝島線




やがて多摩大橋通りの右手の街路樹の向こう側に広大な空き地が見えて来る。ここは日産村山工場跡地である。以前はここにドライビングテストコースがあったと言う。カルロス・ゴーンによる日産再建計画(そういや日産ってつぶれかけたんだ!)で広大な土地は売却され、1962年から始まった工場の歴史は2004年に幕を閉じた。

212.右手に日産工場跡地


日産の跡地の北の端に巨大な建物が見えて来た。イオンモールむさし村山ミューである。中に3階建てのジャスコあり、数えきれないほどの専門店あり、シネコンWarner Mycal Cinemasありの一大複合商業施設である。専門店街にはFranc franc、TOMMY HILFIGER、ユニクロ、H&M、SHIRTS PLAZA、無印良品のような「食べられない系」と、紅虎餃子房、とんかつ新宿さぼてん、ゴールドストーンクリームやフードコートのような「食べられる系」が入っている。全店舗を二律背反で分けると理解しやすいw

216.イオンモール

私は専門店にさほど興味がないので、ジャスコでお買い物くらいのためにイオンモールに入る。食料品売り場は毎日の食料を求める地域住民で賑わう。実は私、このジャスコ食料品売り場でヤンキーカップルが店員さんに土下座させているのを見たことがあるんだなー。

お気づきの読者さんもおられるかも知れないが、ここイオンモールむさし村山は陸の孤島である。何せ東京都で唯一、鉄道の駅が無いのが武蔵村山市なのだ。イオンモールからは交通手段としてバスが出ているとはいえ、客は主として自家用車で近郊のベッドタウンからやって来る。不便なので土地の値段が比較的安い武蔵村山近郊にマイホームを持つのはヤンキー上がりでも十分可能である。ヤンキーは車好きというのもある。こうして店員さんに因縁をつけるヤカラが安心して買い物できるのがイオンモールむさし村山ということになる。闊歩する元ヤンにおびえながらパンピー(一般People)が安心して買い物できないのがイオンモールむさし村山ということになる。イオンモールばっさりw




多摩大橋通りをさらに北上すると新青梅街道に出る。府中街道近くで見た物流の猛者たちが通っていたあの新青梅街道である。街道のわきはここでもめし屋である。
「いーとーしーさとー せーつーなーさとー 和食屋のさとー♪」
この歌詞はアメーバ大喜利に投稿した100個のうちのひとつである。写真は和食さとである。


219.新青梅街道


新青梅街道を過ぎると青梅街道との交差点に出る。これは前の記事の最初の写真を違う角度から撮影したものである。茶色のマンションを北西から撮ったのがこの写真、前の記事の写真では同じマンションを南から撮っている。

221.青梅街道


こうして私はスタート地点に帰って来た。走行距離30km。いつもは平均時速15km/hで2時間にて走破する距離だが、GWのまったり感の中、5時間かけて自転車ブラタモリした。平均時速6km/hって早歩きと変わらんじゃないかっ。いや、途中、自転車を止めて132枚もの写真を撮影してたからこんな平均時速になっている。すべての写真132枚をブログにアップすると読者さんにヒカれるので、前の記事で21枚、この記事で30枚をセレクトして紹介した。いかがだっただろうか?



道すがら昔の人たちがどこを通り、どんな生活をしていたかに思いを馳せることは楽しい。そこで参考になるのが古地図であり、古地図を頭に入れて散歩することはタモリさんの趣味のひとつである(タモリ倶楽部ではずっと以前からタモリさんは「ブラタモリ」していた)。古地図が掲載されている本として私は次の本を所有している。
「地図でたどる多摩の街道 30市町村をつなぐ道」
今尾恵介著、けやき出版、2015年4月13日第1刷発行


301.多摩の街道表紙


目次は下の通り。各市町村名が列挙されており、ひとつひとつに対して郷土史が語られる。

302.多摩の街道目次1

303.多摩の街道目次2


たとえば調布であれば、その名前の由来が租庸調の「調」として「布」を差し出したこと、拙記事「甲州街道をゆく」で紹介したように調布は布田五宿と呼ばれる宿場町であったこと、など。加えて、昔と今の地図を並べて閲覧できるように構成されている。下の写真の上半分は明治39年(1906年)、下半分は平成20年(2008年)の地図である。明治時代は甲州街道沿いに宿場の家並みが見て取れるが、現在はその街道は手狭になり北に通されたバイパスを甲州街道と呼んでいることなどが本書で説明されている。

305.多摩の街道調布


もうひとつ例として小金井を挙げよう。本書では小金井が小さな自治体であること、それは小金井が市町村合併を経ずに今日まで来た事実に由来することから歴史が語られる。また江戸時代からの名所である「小金井の桜」への花見客を当て込んで、JR中央線の前身である甲武鉄道が開通したエピソードなどが披露されている。地図は右半分が大正6年(1917年)、左半分が平成24年(2012年)のものであり、昔も今も変わらない小金井桜や大きく変わった東京農工大近辺などを見比べるのも楽しいだろう。

304.多摩の街道小金井


本書では一貫して本文プラス地図というスタイルが取られているが、「多摩の道」と称して作成された地図は出色の出来栄えである。現在の地名と昔からの街道が手描きで「合成」されている。着目している現在のある土地とある土地が、昔はどのような街道で結ばれていたか、またそれが今と案外変わっていないことが発見されて楽しい。

306.手描き多摩の街道現都市と旧街道


本書は三多摩住民として多摩の地理と歴史に興味がある人だけでなく、広く一般の読者にアピールする良著であると言えよう。



このように自分の身の周りの来歴を知るには古地図、あるいは古地図を用いた解説本がお勧めである。古地図を知ると、その土地を歩いたり自転車で旅行することが数倍楽しくなるはずである。自動車や電車では点と点しか分からない地理が自転車などでブラタモリすると線でつながる。


休日の旅行を「点で楽しむ」から「線で楽しむ」に変えてみませんか?