第96代 後醍醐天皇 縁の大須(名古屋市) | 論説 [ ● ]おおす新聞

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皇御國、第96代 後醍醐天皇 縁の大須(名古屋市)、藤田東湖「和文天祥正氣歌」天地正大氣 粹然鍾 神州。吉田松陰「士規七則」士道莫大於義 義因勇行 勇因義長。日本國領土 尖閣諸島徹底護持、七生報國

第96代 後醍醐天皇 縁の大須(名古屋市)



大須大須観音が、現・岐阜県羽島市大須から今から401年前の慶長17年(1612年)、徳川家康公が名古屋を建設経営するにあたり、まず第一に現・名古屋市中区大須御遷座したことにその原因をみることができる。

大須観音が現在の大須観音の地に御遷座して来なければ、大須という名称の地は現在、名古屋市中区には存在していないだろうし、中部地区最大の商店街としても発展しなかっただろうと推察できる。

大須観音は、 後醍醐天皇にその存立の原因が確認できる。

(筆者は、奈良県吉野の 後醍醐天皇御稜、
吉野神宮(御祭神: 後醍醐天皇)を謹みて参拝させて頂いたことがあります)

別格本山 後村上天皇勅願所
「北野山真福寺寶生院(きたのさんしんぷくじ ほうしょういん)」
大須観音(俗称)について


(勅願所 意味:勅願により、国家鎮護などを祈願した神社や寺院)
(勅願 意味:勅命による祈願。 天皇の祈願)

大須観音
http://www.osu-kannon.jp/about/index.html
当寺は、もと尾張国長岡庄大須郷(今の岐阜県羽島市大須)にありました。御開山は能信上人(のうしん しょうにん)です。
元亨四年(1324年) 後醍醐天皇は、勅願(意味:勅命による祈願。 天皇の祈願)を下し賜(たま)い(意味:お与えになる)長岡庄北野天満宮を御造営になりました。

後醍醐天皇能信上人に深く御帰依(きえ)になり、元弘三年(1333年)上人をその別当職(別当 意味:本来、律令制において本官を持つ者が他の官司の職務全体を統括・監督する地位に就いた時に補任される地位)に補(ほ)し(意味:職務の担当を命じる)、「北野山真福寺寶生院(きたのさんしんぷくじ ほうしょういん)」という寺号を賜りました(意味:「与える」の意の尊敬語)。

能信上人は当寺の開創にあたり、伊勢大神宮に百ヶ日間お籠りになり、「この世の人々が、お救いを受け、お恵みを頂きますには、どなた様をお祀り致したらよいでしょうか」と一心不乱にお祈りになりました。
上人の誠は神に通じ、ある夕べの霊夢に、「大慈大悲の観世音こそは利益無量、この世の人々に、最も有り難いお方である。」とのお告げを得られ、その上、観世音の貴いお姿を拝されたのであります。

そのお姿は昔、弘法大師が一刀三礼御彫像(いっとうさんらいごちょうぞう)あそばされた摂州四天王寺大慈大悲の観世音菩薩に寸分違(たが)わぬ御尊影でありました。
この霊夢の不思議は、後村上天皇の御代に至り、朝廷に達し、(みことのり)によって、当寺に移されご本尊と仰ぐこととなったのであります。それから後、霊験は誠にあらたかなものがありました。

後村上天皇も厚く上人御帰依になり、伽藍(がらん)を建立し、田地を賜い、すえ長く「勅願寺となす」との有り難い詔(みことのり)を下されました。(勅願寺 ちょくがんじ。意味:勅願により、国家鎮護皇室繁栄などを祈願して建てられた寺。東大寺・薬師寺など)

織田信長公」も寺領五百石を寄進し、「徳川家康公」に至っては、名古屋建設経営するにあたり、慶長十七年、まず第一に、当寺を、今のこの地(愛知県名古屋市中区大須2-21-47)に移されたのであります。

はたせるかな霊験、日に日に新に、善男善女の参詣きびすを接し、市の一大中心として繁栄し、「大須観音」と俗称され、真言宗智山派別格本山として、今日に至っているのであります。(転載)



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第96代 後醍醐天皇(ごだいごてんのう)(南朝 初代)
御名:尊治(たかはる) 
異称:吉野院(よしのん)
在位期間:1318~1339
生誕~崩御:1288~1339 52歳
陵墓:塔尾稜(とうのおのみささぎ)(奈良県吉野郡吉野町吉野山塔ノ尾・如意輪寺内)
父:後宇多天皇 母:談天門藤原(五辻 いつつじ)忠子(ちゅうし)
縁の神社・寺院:吉野神宮(奈良県)、如意輪寺(奈良県)、吉水神社(奈良県)、大須観音(愛知県名古屋市)



第97代 後村上天皇(ごむらかみてんのう)(南朝 二代)
御名:義良(のりなが)、憲良(のりなが)、吉野殿
在位期間:1339~1368
生誕~崩御:1328~1368 41歳
陵墓:桧尾陵(ひのおのみささぎ)(大阪府河内長野市寺元・観心寺内)
父:後醍醐天皇 母:新待賢門院(しんたいけんもんいん)藤原(阿野 あの)廉子(れんし)
縁の寺院:大須観音(愛知県名古屋市)





後醍醐天皇といえば、「建武の中興」、南朝樹立、南北朝時代の始まりとして、その御名はよく知られている。

また、 後醍醐天皇から、忠君の誉れ、楠木正成公を想起することは当然である。(皇居外苑には、尊皇の士・楠木正成公の馬上の銅像がある)

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皇居外苑 楠木正成公 像
http://www.env.go.jp/garden/kokyogaien/1_intro/his_06.html




楠木正成公 七生報國

楠木正成公
(くすのき まさしげ公)は、 後醍醐天皇に殉じ、湊川(兵庫県神戸市)で、弟・正季公(まさすえ)と「七生報國」を誓って刺し違え殉節(皇紀1996年・西暦1336年5月25日、新暦7月12日)され、その志は明治維新の志士吉田松陰先生(皇紀2519年・安政6年・西暦1859年10月27日、斬首刑。靖國神社の御祭神)に熱烈に受け継がれ、また、坂本龍馬(靖國神社の御祭神)、高杉晋作(靖國神社の御祭神)、西郷隆盛大久保利通木戸孝充伊藤博文など(敬称略)維新の志士が、楠木正成公の墓碑(現・湊川神社境内)に額づいて国事に奔走された(以前、湊川神社HPに記載されていた文言から転載編集)。 


楠木正成公 七生報國
正季公「七生まで人間に生れて朝敵を滅ぼしたい」
正成公「いつかこの本懐を達せん」と誓った。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1175.html



富士浅間神社(名古屋市中区大須2-17-35。大須観音から東に約100m) 
末社「湊川社御祭神:楠木正成公(くすのき まさしげ公)


太平記・楠木正成、湊川での最期

7:40~当該動画の語句:楠木正季公(くすのき まさすえ。楠木正成公の弟)「次の世も、いや、七生(しちしょう)までも生まれ変わって、朝敵を滅ぼしとうござりまする」




楠木正成公の御遺徳は、明治維新で顕在化し、日本が欧米列強諸国の植民地になることなく独立国家として、現在に至るまで存在していることの精神的支柱、行動の原点たらしめたといえる。

先の大東亜聖戦では、楠木正成公の旗印である「非理法権天」が、沖縄特攻の戦艦大和に、人間魚雷「回天」を搭載した伊号潜水艦に掲げられた。


戦艦大和 沖縄特攻菊水一号作戦) 
菊水作戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B0%B4%E4%BD%9C%E6%88%A6
戦艦大和に関して記載したブログ⇒http://amba.to/ZYVChS  http://amba.to/12glQlo

非理法権天 回天楠公社前(岐阜県下呂市下呂町)
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/kaiten-gero.htm



回天特別攻撃隊の特攻隊員の諸先輩方は「七生報國」の鉢巻をされ、米国艦艇に突入、散華された。数多の特攻散華玉砕の先人の壮挙により、米国を心胆寒からしめ大東亜聖戦の終戦に於いて、國體護持された。

(追記)
回天特別攻撃隊http://amba.to/1cgrz0Z
(追記ここまで)


回天特別攻撃隊菊水隊



楠木正成公は、 後醍醐天皇に忠君の至誠を貫き、そして、 後醍醐天皇大須観音の存立の原因となっておられることに歴史的な縁を感じるものである。

大須のルーツは大須観音にあって、大須観音のルーツは 後醍醐天皇に求めることが出来る。

後醍醐天皇のルーツは、当然、初代 神武天皇に求めることが出来る。

大須大須観音、 第96代 後醍醐天皇、そして 初代 神武天皇にそのルーツを求めることができる。

天皇陛下の世界での権威はローマ法王と同じかあるいはそれより上とされている。

外交儀礼としてのプロトコールは、 天皇陛下ローマ法王が同じくか、 天皇陛下ローマ法王より上であると認識する。

日本は、 初代 神武天皇、奈良の橿原で御即位より、連綿と2600有余年続いてきた世界でも全く稀有な国である。(世界でこの様な国は皆無。どこかで分断や消滅、政体が革命などで転覆。欧州の王は400年くらいの歴史)


世界史対照年表(年表の一番下、唯一日本だけが連綿と続いていることが確認できます)



大須は、大須観音を起因として、大須観音は、 第96代 後醍醐天皇の命に起因し、 第96代 後醍醐天皇は、初代 神武天皇に垂直にたどり着く。
 



(付記)

岩手県の緑風荘の座敷わらし(亀麿)は、 後醍醐天皇 南朝の武将の子と言い伝えられている。
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亀麿座敷わらし) 亀麿神社にて(岩手県二戸市金田一字長川41番地)

緑風荘(りょくふうそう)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%91%E9%A2%A8%E8%8D%98
岩手県二戸市金田一の温泉郷にある旅館。

沿革

1300年南北朝時代
南朝( 後醍醐天皇)の武将が北朝(足利尊氏)方との戦いに敗れ落ち武者となり大和国(現・奈良県)から武蔵国五日市(現・東京都あきる野市)に落ち延びこの地名を苗字とした

しかし、この地は関東の勢力範囲内でそこからさらに陸奥国(金田一)に落ち延びる。

この時6歳と4歳の男の子がおり、金田一までの旅路で兄の亀麿(かめまろ)は病にかかり死去する。

死の床で「末代まで家を守り続ける」と言い息を引き取った。

この亀麿奥座敷槐の間」に棲みつき「家の守り神」となり、時々客人に姿を見せたりいたずらをするようになったと言い伝えられている。

この部屋に泊まり座敷わらしに出会えると驚くほどの幸運に恵まれ男は出世し、女は玉の輿にのると一般的に言われている。


1910年
(明治43年)、日本ではじめてオカルトブームとなる。

民間伝承をまとめた柳田國男の『遠野物語』が発表された。

これをきっかけに座敷わらしの存在が全国に知られるようになる。五日市家座敷わらしも注目されたが、地元だけに限られた。

1955年(昭和30年)、五日市家により「緑風荘」開業。

1971年(昭和46年)、作家の三浦哲郎が緑風荘の座敷わらしをテーマに児童小説『ユタとふしぎな仲間たち』を発表。

1970年代のオカルトブームも重なり、緑風荘の名は一躍全国に知られるようになる。

1980年代
「怪奇現象」・「心霊現象」・「超常現象」をテーマとしたテレビ番組で度々取り上げられる。この頃から芸能人の宿泊ラッシュとなる。

2009年
(平成21年)10月4日午後8時半頃に発生した火災により、中庭の座敷わらしを祀った祠を残して全焼。



柳田國男
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%B0%E5%9C%8B%E7%94%B7

遠野物語(とおのものがたり)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E9%87%8E%E7%89%A9%E8%AA%9E

(付記ここまで)



(追記)

座敷わらしと再会? 「緑風荘」再建へ (河北新報 平成27年9月15日)

 「座敷わらし」が現れる伝説で知られ、2009年に全焼した岩手県二戸市金田一温泉の旅館「緑風荘」の運営会社は28日再建工事に着手する。営業再開は来春を予定している。

 再建する緑風荘は、延べ床面積約1000平方メートルの南部曲がり家で、宿泊部屋10室と浴場棟を備える。焼失前に東北工大(仙台市)が行った建築調査の図面を基に設計し直した。

 旧旅館と比べ規模は半分に縮小するが、座敷わらしが出ると伝わる「槐(えんじゅ)の間」など、かつての趣を再現する。

 総事業費は約3億円。運営会社座敷わらしの社債と全国からの募金や寄付金、投資ファンドを設立して募った約3000万円を充てる。

 同社の五日市洋社長は「再建資金の工面に苦労したが、やっと着工できることになりうれしい。再建を期待して応援してくれた全国の皆さんに感謝したい」と話している。

 緑風荘は09年10月、ボイラー室から出火し、築300年の母屋など4棟が焼けた。旅行雑誌などで紹介され、3年先まで予約が埋まる人気だった。

(追記ここまで)



(追々記)

燃えてしまった緑風荘~座敷わらしに会える宿が再建へ~ - NAVER まとめ 平成27年年2月12日http://matome.naver.jp/odai/2141671922536537001
座敷わらしに守られているはずの宿が焼失したのはなぜ?
経営者の五日市さんによれば



緑風荘http://www.zashiki-warashi.co.jp/kamemaro.html
平成28年5月14日(土)営業再開

(追々記ここまで)



座敷わらしの瞬き







第96代 後醍醐天皇 縁の大須(名古屋市)


大須は尊皇の街 萬世一系乃皇統護持

古事記1300年 大須観音展



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(追々記)

日本のメディアが報道しない支那(china)の事実

http://ameblo.jp/yamap888/entry-11584663765.html




外務省「尖閣諸島」Senkaku Islands
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/


外務省 尖閣諸島→資料コーナー→尖閣諸島について(平成27年3月16日更新)(PDF)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/pdfs/senkaku.pdf


尖閣諸島が日本固有の領土であることは歴史的にも国際法上も明らかであり, 現に我が国はこれを有効に支配しています。したがって,尖閣諸島をめぐって解決し なければならない領有権の問題はそもそも存在しません
日本は領土を保全するために毅然としてかつ冷静に対応していきます。
日本は国際法の遵守を通じた地域の平和と安定の確立を求めています。





外務省「竹島」Takeshima
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/
竹島の領有権に関する日本の一貫した立場
竹島は,歴史的事実に照らしても,かつ国際法上明らかに日本固有の領土です。
韓国による竹島の占拠は,国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠であり,韓国がこのような不法占拠に基づいて竹島に対して行ういかなる措置も法的な正当性を有するものではありません
日本は竹島の領有権を巡る問題について,国際法にのっとり,冷静かつ平和的に紛争を解決する考えです。
(注)韓国側からは,日本が竹島を実効的に支配し,領有権を再確認した1905年より前に,韓国同島を実効的に支配していたことを示す明確な根拠は提示されていません





外務省「北方領土」the Northern Territories
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/
1855年2月7日日本ロシアとの間で「日魯通好条約」が調印され択捉島とウルップ島の間に国境が確認されました。それ以降も,択捉島国後島色丹島及び歯舞群島からなる北方四島は,一度も他国の領土となったことがない,日本固有の領土です。しかし,1945年に北方四島がソ連に占領されて以降,今日に至るまでソ連・ロシアによる不法占拠が続いています。
政府は,北方四島の帰属の問題を解決してロシアとの間で平和条約を締結するという基本方針に基づき,ロシアとの間で強い意思をもって交渉を行っています。









吉田松陰先生士規七則(しきしちそく)」


http://blog-imgs-67.fc2.com/n/e/z/nezu621/20140924101946977.jpg


士規七則

披繙冊子 嘉言如林 躍躍迫人 顧人不讀 即讀不行 苟讀而行之 則雖千萬世 不可得盡 噫復何言 雖 然有所知矣 不能不言 人之至情也
古人言諸古 今我言諸 今亦詎傷焉 作士規七則

一 凡生為人 宜知人所以異於禽獣 蓋人有五倫 而君臣父子為最大
  故人之所以為 人忠孝為本
一 凡生皇國 宜知吾所以尊於宇内 蓋 皇朝萬葉一統
  邦國士大夫 世襲禄位 人君養民 以續祖業
  臣民忠君 以継父志 君臣一體 忠孝一致 唯吾國為然
一 士道莫大於義 義因勇行 勇因義長
一 士賢以質實 不欺為要 以 巧詐文過為耻 光明正大 皆由是出
一 人不通古今 不師聖賢 則鄙夫耳 讀書尚友 君子之事
一 成徳達材 師恩友益居多焉 故君子慎交遊
一 死而後已四字 言簡而義廣 堅忍果決 確乎不可抜者 舎是無術也

士規七則 約為三端 曰 立志以為 萬事之源 選交以輔 仁義之行 讀書以稽 聖賢之訓 士苟有得於此 亦可以為成人矣。